ヤマちゃんが思ったこと、トレッキング、源流探訪、不可思議現象、反日マスコミがスルーしたニュースなど様々なことについて書き留めます。

ヤマちゃん日記

2015年04月28日

反原発をいちはやく推進したドイツでは何が起きたか?

<4月27日(月)>

快晴のこの日 高羽ヶ岳に足が向いた。

4月22日に訪れた際、687mピークから北西に伸びる稜線を蔽っていた笹が刈り取られていたのを発見し、ひょっとすると二万五千分の一の地形図に記載されている点線に沿って笹が刈り取られているか否かに関心があったからだ。
DSCN0620.JPG <笹が刈り取られた687mピークから北西に伸びる稜線>

この二万五千分の一の地形図に記載されている点線は、たたら川林道終点付近から稜線伝いに512mピークを通過して687mピークに続いている。山口県百名山という登山ガイドブックでは、この稜線伝いの点線には×印が付けられている。

現にこの点線を通って687mピーク経由で高羽ヶ岳に登ったという登山記録は見たこともない。少なくとも本年4月16日まででは687mピークから北西に向う稜線は密集した笹で覆われていたことを当方も確認している。

この稜線上の笹が極最近刈り取られたのは、恐らく境界線確認のための地籍調査の目的ではないだろうか?


ということで、とりあえず30分程度687mピークから北西に伸びる稜線を下ってみることにした。

687mピークから標高で20m程度下った後笹原は姿を消し、急坂と緩やかな坂を繰り返す廃道の雰囲気を残す尾根道が512mピークまで続いた。

途中猪が入浴するものと思しき泥水溜まりもあった。
DSCN0618.JPG <猪の風呂?>

512mピークから先は、北に伸びる稜線では笹は刈り取られていたが、お目当ての512mピークから西に伸びる稜線は荒れたままであった。

512mピークから西に伸びる稜線は、タタラ川林道終点に至る可能性があるので、少し下ってみた感じでは藪化した廃道の雰囲気は残っていた。

結局この日の稜線探検は512mピークで打ち切り引き返すこととした。
“行きは良い良い、帰りは怖い”の譬え通り、稜線の登り返しは相当厳しかった。仮にこの稜線ルートが登山道として整備されることがあったとしても、登りでは相当ハードなので、通常では下山向きコースであろう。

立木を掴み約200歩毎に休みながらヘロヘロになって687mピークに着いたのは、512mピークを折り返してから45分後であった。

512mピークから点線の如く稜線をタタラ川林道終点付近に至るには,1km程度の歩行距離はあるだろう。

現時点では独力でこの残り区間をルート整備する気力はとてもではないが湧かない。

仮に地籍調査部隊が残りの当該ルートの笹刈り/雑木刈りを行って呉れれば、この荒廃した廃道の復旧はそれほど困難ではないような気がした。


687mピークから高羽ヶ岳に向って170m位進んだ鞍部から南西に少し下り谷筋にであってから谷を遡り、標高680mあたりで縦走路に出るルートを進んだ。このルートは4月16日に笹を刈っておいたので迷わずに行けた。

山頂直前の急坂を雑木を杖にしてどうにかしのぎ視界が開けた山頂に付いた。

山頂では稜線の境界に沿って笹が刈り取られており、境界を示す杭には新たに赤ペンキが塗られていた。4月16日以降再度 地籍調査が行われた様子だった。

遅い昼食後、山頂付近の笹を刈った。

最近は経費節約の為ムスビはカミサンのお手製であり、飲み物も自家製だ。
したがってコンビニに立ち寄る必要が無くなった。

展望用の立木に登ってみると、先端の葉が刈り取られていた。
誰かが刈り払ったのであろう・・・ということは誰かがこの立木に登って素晴らしい景色を眺めたことになる。

立木に登って眺めていると、山口市徳地町国立青年の家の北側後方に見えた山の天辺近くに新しく林道が出来ていたのに気がついた。

帰宅して地図で調べたら、大原湖に注ぐ滑川の支流である半五郎川に沿って遡上する林道の峠から新たに分岐して作られた林道だと思われた。


これからの季節では陽射しが強くなるので、山頂には多少の木陰があったほうが休む際には都合が良い。

太い笹ともなると直径は5mm程度あり切るのにもかなりの力が必要となる。
カンカン照りで飲料水1000ccを殆ど飲みつくしたので、下山時には往路に通過した沢を下り、枯れた沢に山から浸み出す湧き水をペットボトルに入れて旨くて冷たい天然水をしっかり飲んだ。

夏場でもこの水場の水が枯れなければ本格的な水場として有難い存在となるであろう。
DSCN0621.JPG <下山時に見つけた ギンリョウソウ>


この日の山行でも新しい発見があった。

@笹が刈られた687mピークから北西に伸びる稜線は、昔歩かれていた旧道の雰囲気があった
A512mピークに初めて到達した
B猪の浴場を見た
C山口市徳地町国立青年の家の北側後方に見えた山の天辺近くに新しく林道の存在

何となくプレミアムビールを飲みたくなり帰りに恵比寿ビールを買った。
残念ながら、第3のビールと比べて味の違いは判ったものの、特に旨いとは感じられなかった。


<首相官邸に舞い降りたドローン>

この報道を聞いた途端、“日本の政治の中枢は何と脆弱なことか!!!”とあきれてしまった。

ドローンに小形高性能爆弾を吊るし、首相官邸の至近距離で爆発させれば官邸は木っ端微塵に吹っ飛ばされ日本の政治中枢は麻痺し日本全体が大混乱に落とし込まれる可能性も否定できないからだ。

日本に敵対する中国、北朝鮮などはこのアイディアに惚れ込み日本攻略の新たなヒントを得たのではないだろうか。

自民党総務会長二階俊博は早速“首相官邸上空を飛ばせないソフトを全ドローンに搭載すべきだ”・・・と注意を喚起した。

二階氏のこの発案は当然ではあるがモグラ叩きの感があり、さびしい限りである。

責任与党の総務会長ともなれば、日本の政治中枢をあらゆる脅威から守るべく全てを総点検しなくてはならないのである。

“責任与党の総務会長ですらこの程度野発想しか出来ない”ことが現在の日本の危機的状態を端的に表現しているのだ。

核シェルターもない現在の東京に核爆弾が投下されれば当然首相官邸も主要政府機関も、国会も一斉に機能停止し、この機能停止状態は数年間継続するかもしれない。

当然日本国全体が大混乱し、この隙を突いて日本侵略を狙う勢力が押し寄せ直ちに占領される可能性はきわめて高い。

鳩山ルーピーが沖縄米軍基地の県外移設を唱えた途端、ロシアのメドベージェフ大統領は日ソ間で係争中の北方領土を訪れロシア領土だとして世界中にアピールした。

これが世界政治の冷厳なる実態だ。

少しでも隙があれば他国がその隙をついてくるのだ。

首相官邸へのドローン侵入事件を奇貨として、総合的な日本中枢防御体制をハード・ソフト共に早急に整備し直すべきだ。


さて首相官邸へのドローン侵入事件の犯人である山本泰雄容疑者は、警察へ出頭する直前に自分のブログに犯行の経緯を書き込んでいた。

http://blog.livedoor.jp/hisabisaniwarota/archives/52701202.htmlによると、
山本容疑者は「原発政策に不満があった。俺が官邸にドローンを飛ばした」と供述している。山本容疑者は福井県小浜市出身。父親を早く亡くし、母親らと暮らした。
子供のころを知る女性(43)は「正義感が強い。思い込むと最後まで貫くタイプだった」と語る。
機械いじりが大好きで、県立高校の電子機械科から航空自衛隊に入隊。
「機械いじりができる職場が他になかった」と説明していた。
空自を辞めた時期ははっきりしないが、昨年まで電機メーカーに正社員として勤務。
転勤を命じられ退職した。福井県警によると、猟銃所持の許可を得て、自宅に散弾銃を所持していた。・・・とあった。

反原発にこだわる人・勢力の殆どは、ドイツの反原発に触発されている。
日本のマスコミは殆ど反原発勢力なので、ドイツの反原発を誉めそやすだけである。

ドイツ在住の川口マーン惠美氏が『ドイツの脱原発がよくわかる本』(草思社)を著わした。
反日マスコミ報道の嘘に誤魔化されない為に、この本は貴重なものとおもう。



「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成27年(2015)4月24日(金曜日)参
   通算第4526号 の書評から引用する。

〜〜〜引用開始〜〜〜
反原発をいちはやく推進したドイツでは何が起きたか
  電気代が急騰し、地球温暖化の元凶を刺戟して庶民は悲鳴を挙げた


  ♪
川口マーン惠美『ドイツの脱原発がよくわかる本』(草思社)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 来日する度に川口さんは発電所の取材に出かけていた。ドイツでも原発問題が騒がれ、エネルギー問題に首をつっこまれていることは知っていたが、こうした大作に挑んでいたことは知らなかった。
 評者(宮崎)の関心はと言えば、日本で原発がいきなり全部止まって、原油輸入代金とガスの支払いが激増し、日本の貿易収支が赤字に転化したこと。それも消費税の値上げどころではない。日本が貿易赤字に苦しむ主因が、この原発停止にあることは誰もが知っているのに、反原発の世論を前にして誰も大きな声で言わないのは不思議だった。
 もう一つが地球温暖化による異常気象である。
 二酸化炭素の排出量が激増したため(火力発電により)、大気の変化が大雨、大雪、突然の雷、ヒョウ、落雷。。。。これも主因は原発停止ではないのか。

 そしてドイツは原発をやめると言った。
なにか日本のお手本のようにマスコミがはしゃいだ。しかしドイツでは面妖な事態が進んでいたのだ。
 とりわけ巨大な矛盾が露呈していた。エネルギー再利用と「クリーンエネルギーの罠」とでも言うべきだろう。
 川口さんの報告に拠ると「再エネ関連は、すでに一大産業に発展している。11年の再エネ関連の売上高は370億ユーロで、雇用が38万人。風力はそれぞれ43億ユーロで10万人、太陽光が160億で11万人といわれている」
 その結果、電力は余剰となったが、電気代があがった。
 「電気はあまっていても何の役にも立たない」どころか、「思わぬ不都合がたくさん起こる」のである。
 しかし「反原発を主張している人たちは、それを絶対に言わない。だから誤解を招く」のである。
 ドイツは17基の原発のうち、まだ9基は稼働している。日本は突然50基全部をとめてしまった。火力発電を増設した結果、二酸化炭素の輩出が激増し、「CO2の温室効果は地球温暖化の最大原因とみられることは、いまや小学生でも知っている」と川口さんは言う。
 そしてCO2は、海でも海水に溶けて、生態系を壊す。
 つまり、原発を止めて、地球温暖化は異常気象をもたらし、海の生態系を異様に破壊し、それでも情緒的な反原発運動はとまらない。
もし日本がドイツのように反原発政策を推進するとなれば、命取りになる、と川口さんは強く警告を発する
「日本はドイツを真似てはいけない」と。
〜〜〜引用 終わり〜〜〜

日本の反原発勢力は、職業的親中・親コリア勢力と、感情的な潔癖主義に起因する者に大別されると感じる。

反日で飯を食っている職業的親中・親コリア勢力は、口ではクリーンエネルギーというが、彼らの実際の狙いは
@日本での原発ゼロを実現することで失職する日本の優れた原子力技術者を中国や韓国が取り込む事と、
A日本で原発ゼロが実現すれば原爆の原料となるプルトニウムが原発から入手出来なくなり日本の核武装を阻害するからである。
B更には原発ゼロによって毎年3.6兆円の国富が外国へ流出し日本の国力が大きく低下する
からである。

政府も与党もドイツの脱原発の頓挫=失敗=を広く国民に周知させるべきである。
反日マスコミが垂れ流す反原発情報だけが国内に流通しているので、自ら思考する能力に欠ける純朴な潔癖人種は原発を毛嫌いするのである。

自民党にせよ、政府にせよ、“少数の謂れ無き反対を恐れて自己保身から言うべき事も言わない”という悪習が蔓延している。

換言すれば、自民党にせよ、政府にせよ、“反日勢力、反日マスコミからの反対を恐れて何も言わない”のである。

自己保身しか出来ない政治家には、国会議員と呼ばれる資格はない。
そのためには選挙権を有する国民が政治家をしっかり選ぶ眼力を持たねばならない。

馬鹿丸出しの山本太郎が国会議員に当選するの時代なのだ。選んだ東京都民は何なのか???

先祖の墓が日本にない小沢一郎の第一の子分であり江沢民の銅像建立を画策した和歌山県選出の二階俊博(現自民党総務会長)を落選させない和歌山県民は一体何なのか???

国会議員は俺が地元の名士ではないのだが・・・

今島根県が恩知らずの韓国に急接近している。島根県の竹島は韓国が不法占拠しているのに・・・・
観光の為か???

島根県議会は“国は慰安婦問題に真剣に向き合え”という趣旨の議決をした。こんな反日議決を行った都道府県議会は京都府議会と島根県議会だけである。

京都府議会はもともと反日左翼(共産党)が強い地域なのでうなずける。

しかし保守王国といわれた島根県だけに、この島根県議会議決は異常である。
島根県会議長は自民党所属である。

換言すれば、かっての自民党王国であった自民党島根県連に何かが起こったのかもしれない。

島根県民はこの自民党県連の心変わりを知っているのだろうか???
島根県民はこの自民党県連の心変わりを容認しているのだろうか???



 
<4月28日(火)>
この日は休養日。
春たけなわで百花繚乱の感があり、その一部を写真に撮った。

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2015年04月26日

弟見山のカタクリの花

4月25日(土)弟見山にカタクリの花を見に行った。
折角なので、シャクナゲ尾根谷コースで草刈を2時間程度行った後縦走路で弟見山に行くことにしたので、6時過ぎに出発した。

途中便意を催したので柚野の物品販売所のトイレを借りた。ここのトイレはいつも綺麗に掃除されているので、弟見山周辺の登山には便利である。

7時過ぎにシャクナゲ尾根谷コース登山口着。休日なので他の来訪者のための駐車スペースを残すように土手ぎりぎりに駐車した。

谷コースの草は芽を吹いたばかりでわざわざ刈り取るほどのことはなく鞍部のベンチで小休止後縦走路を目指して登った。

標高900mあたりの第二ベンチで小休止するも、見える筈の十種ヶ峰は霞で見えなかった。
DSCN0605.JPG <第二ベンチから弟見山を望む>

笹の新芽が目立つので腰を屈めながら出来るだけ新芽を折りながら進んでいると、最後の急登にかかる所で鈴の音と共に年配の男性が下ってきた。

弟見山に行きたいのだが道は間違っていないか?と聞いてきたので、この道は屋敷川林道へ下る道です・・・と答え、丁度当方も弟見山に行くのでご案内することにした。

この男性は950mピークで登山道の踏み跡がしっかりしていたので何となくシャクナゲ尾根コースに入ったとのこと。

同行者とあれこれ話しながら、大目の休憩を入れてきつい尾根道のアップダウンを乗り切った。

途中で若い男性が追い抜いていった。山頂付近で下ってきた年配夫婦にカタクリの花の状況を聞いた所、“盛りはすぎていた。年々悪くなっている”とのことで後悔したがとにかく山頂まで行くことにした。

山頂手前の笹藪の中にはカタクリの花が散見されたので安心しながら登っていくと、確かに弟見山の肩あたりでは陽射しも強く花は枯れていた。

弟見山の肩(展望所)を越して山頂に向うと次第に多くのカタクリの花が咲いており、平坦な山頂の通路60m位の両側には見頃のカタクリが多数見られた。

昨年4月17日来た時は満開であった。今回は多少枯れていたので85〜90点ではないだろうか。
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仏峠方面からも団体で20人程度が登って着ており山頂付近は30人程度いたのではないだろうか???

弟見山これだけ多くの人を見たのははじめてだ。殆どの来訪者の目的はここ2、3年くらいで有名になったカタクリの花目当てであろう。

今弟見山でカタクリの花を愛でられる多くの人達は、昔から沢山のカタクリの花が咲いていたように思うかもしれない。

以前書いたことがあるが、6,7年前まではカタクリの花を見た記憶はない。4、5年くらい前になって弟見山には肩あたりでカタクリの花は数十株程度しか見られなかった。その後数百、数千株に増えたのは、防府市の『自然観察友の会』の方々が7年前から毎年山頂付近の通路の両脇に生えた笹を刈り取られたことに起因する。

山頂付近では所属する団体を間違えた人もあった。
見晴らしの良い肩(展望所)の辺りでは団体が陣取っていたので、少し奥まった所で昼食をとった。

団体さんからあの山の名は?と聞かれたので金峰山だと答え、ついでに莇ヶ岳、長野山なども指し示しておいた。

帰路はカタクリの花を見る目的が達せられたので足取りは重くなった。
同行した周南市の年配男性から北岳、間ノ岳登山の話などを聞きながらどうにかシャクナゲ尾根の手前のピークまで着いて小休止した。

シャクナゲ尾根を下るという男性3人組が追いついてきて、“30年位前にシャクナゲ尾根を通過した時には背の高いシャクナゲの木があった”という男性の話しを聞いた。

シャクナゲ尾根分岐で周南市の男性と別れ、シャクナゲの木を入念に探しながら下り第二ベンチで休んでいると、男性3人組がまたしても追いついてきた。

ベンチで休みながら“注意深く探したがやはりシャクナゲは見つからなかった”ことを話し、おぼろげに見え始めた十種ヶ峰を案内した。最も年配と思われる男性がベンチに座り込み暫し休まれていたのでこのベンチが他人にも実際に役立っていることを実感させられた。

鞍部に至りベンチで休みながら、尾根コースと谷コースのどちらを下るのが良いか?と聞かれたので、尾根コースの最後にはロープの無い急坂があるが、谷コースでは多少距離はあるがなだらかな下りであり、シーズンではタラの芽やウドもある・・・と答えた。

結局、脚にやさしくて山菜もある谷コースを下ることになった。

谷筋に出ると、ウドに眼がないという年配の男性が次々にウドを見つけて採取が始まった。ウドは少し小さめであったが沢山生えていたので結果的に大きな買物袋一杯の収穫があった。当方はワサビの葉を300グラム程度採取した。

驚いたのは、ヤマ芍薬が咲いていたのを教えて貰った時だった。
まさか、ヤマ芍薬がこの谷にさいていようとは!!!!

DSCN0614.JPG

思わぬウドの収穫で3人は急遽ウドの天婦羅で帰宅後宴会をするような話しをされていた。

谷コース入口には1台のSUVが駐車していた。やはり朝 他人分の駐車スペースを空けておいて良かった。

ここで下松市から来られたという3人組と再会を約し別れた。
別れ際にシャクナゲ尾根コース案内の礼を言われたので恐縮もしたが本心嬉しくもあった。

時間があったので、周南市の実家に向った。
周南市では実家の裏山を這いずり回り生えた筍15本を切り払い竹の成長を止めた。この竹が生長すると、竹の葉が屋根に落ち樋に詰まり雨漏りを助長させるからだ。。。

出たばかりの若い筍3本を掘り起こしお土産に持って帰った。

今回の山行では想定外の初めてのことがいろいろあり、記念すべきものとなった。
諸々に感謝、感謝、感謝・・・・
とはいえ、疲れも大きく入浴後夕食時にビール2缶を飲んで直ちに就寝した。
posted by ヤマおやじ at 16:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月24日

第60回バンドン会議に想う

<4月22日(水)>

天気予報は快晴というので、高羽ヶ岳に登った。
今回の目的は高羽ヶ岳登山の周回路ルート探しであった。
北方側の眺めが優れている687mピークを経て高羽ヶ岳に至るルートは、大規模林道を登山口とするコースしかない。

一方長門峡駅からタタラ川を遡り高羽ヶ岳に至るルートはしばしばブログにも記載されている良く知られたコースだが、687mピークは通過しない。

そこで眺めにこだわりを持つ登山者にとっては、“タタラ川を遡り高羽ヶ岳に至るルートにて変化をもたせて687mピークを通過できるルートがあれば楽しいだろう”と思ったので周回コースを模索することにした。

DSCN0565.JPG <687mピークからのパノラマ:クリックで拡大>

登山道を登っていくと、所どころで新たに雑木が刈り払われているのに気がついた。
さらに進むと従来ルートを覆っていた笹が刈り取られていた。
いずれも4月16日の前回登山時では見られなかったことである。

4月16日以降,どなたかが雑木を切り、笹を刈り払われたことになる。
687mピークでさらに新発見があった!!!

何と687mピークから北西方向に下方に伸びる稜線上で、従来繁茂していた笹が刈り払われていた。


2万5千分の1の地形図ではこの稜線上には687mピークからタタラ川沿いの林道終点あたりまで点線が描かれている。ということはこのルートはかって通路として使われた可能性がある。

問題は、この新しい笹刈りされたルートが2万5千分の1の地形図の示された点線と果たして一致するか否かである。

仮に新しい笹刈りされたルートが2万5千分の1の地形図の示された点線と一致すれば、この状況は、莇ヶ岳のシャクナゲ尾根コースと似ている。

2万5千分の1の地形図で点線で示されていた莇ヶ岳のシャクナゲ尾根コースは、3年前までは全くの藪藪・雑木で覆われており、一部の藪漕嗜好者を除く一般登山者の通行は不可能であった。一昨年当方がこの藪を刈り払いシャクナゲ尾根コースとして整備して一般登山道として復活したという経緯がある。

ということで新しく笹が刈り払われた稜線の行く先を確かめたい衝動に駆られたが、16時までに帰宅する必要があり時間的にも無理があるので自重し、周回ルート探索に戻った。


687mピークを200m程度南下すると鞍部(標高605m付近)がある。この鞍部から沢を北西方向に下りタタラ川コースとの合流点目指して下ることにした。

この沢は水量がかなり多くかつ急峻であったので、直接沢を下るのは滑落の危険があるため、沢から10〜15m程度高い山腹をトラバースするハメになった。このトラバースは転落すれば沢に一直線に落下する危険があったので、活きた立木につかまりながら注意深く進んだが崖に阻まれ、途中から稜線伝いに下りどうにか最終の炭焼窯跡がある沢分岐(標高550m付近)に到達できた。

この炭焼窯跡がある沢分岐から鞍部までのさらに歩き易いルートを探るべく、鞍部を目指して沢を高巻きして引き返したものの歩き易いルートは見出せなかった。

鞍部に戻り周囲を眺めると、鞍部から沢の上流に向けては踏み跡があったので、これを雑木や笹を刈り払いながら遡上すると、予想通り大規模林道・高羽ヶ岳縦走路に合流した。

ここからタタラ川コースへの分岐(標高705m付近)に至り、自分にとっては初めてのタタラ川コースを下ってみた。沢コースだけあって岩が露出した急峻なルートの通過には細心の注意を要した。特に雨天時では通路から滑り落ちそうな場所が随所にあり危険を感じた。

最終の炭焼窯跡がある沢分岐を通過すれば、傾斜はかなり緩やかになり道筋も多少はっきりして通常の登山コースらしくなってきた。時間の関係で沢分岐を300m程度下がった地点で引き返した。このコースは下りよりも登りが向いている感じがした。

折角なので山頂に登り昼食を採った。立木に登りパノラマ写真を撮った後16時帰宅のため12時30分頃早々に下山した。
DSCN0573.JPG <山頂からのパノラマ(1):クリックで拡大>

DSCN0574.JPG <山頂からのパノラマ(2):クリックで拡大>




687mピークで景色を眺めながら小憩していると、ふと熊避け鈴の音が聞こえ年配の男性が上ってきたので挨拶を交わした。

この男性が笹を刈ったのか?と聞いたので、“自分ではない、地籍調査の人かもしれない”と答えた。

色々立話を交わす内に、この男性が“ひょっとするとシャクナゲ尾根コースを整備されたヤマちゃんさんでは?”といわれたのでびっくりするやら恐縮するやら・・・

調子に乗って防府市の大谷山(真尾)を紹介すると、この男性はすでに登っておられたとのこと。ついでながら防府市の綾ヶ峰も紹介しておいた。

この男性はザックに大型剪定鋏を入れておられた。通行の邪魔をする枝や笹を刈り払う為に持参しているとのこと。またこの男性は、桐ヶ峠から三ツヶ峰に至る縦走路で目に傷を負いながらも繁茂した藪を5日がかりで刈り払われた ことを明らかにされた。この男性はある意味同好の士かもしれない!!!

ヤマちゃんおやじは3年くらい前に高岳山からの帰りに桐ヶ峠から三ツヶ峰に行こうとして頂上付近で猛烈な笹に阻まれて山頂登頂を断念した記憶がある。笹を刈り払われたこのルートに再度挑戦したい気持ちが湧いてきた。

15時30分くらいに帰宅したが、今回はいつもと違い色々な発見があった点では最近稀に見る山行であった。

缶ビール2杯を飲み早々に就寝した。


<第60回バンドン会議に想う>

産経新聞 4月23日(木)7時55分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150423-00000069-san-pol&pos=2
によると、

バンドン会議演説 首相「先の大戦の深い反省とともに」
■ 「謝罪」「植民地支配」使わず

 日中首脳会談が5カ月ぶりにインドネシアの首都ジャカルタで実現した。戦略的互恵関係を推進して世界の安定と繁栄に貢献することが必要だとの認識で一致したが、歴史認識をめぐる溝の深さは埋まっていないようだ。

 【ジャカルタ=石鍋圭、吉村英輝】アジア・アフリカ会議(バンドン会議)の60周年を記念する首脳会議が22日、インドネシアの首都ジャカルタで開幕した。安倍晋三首相は開会式後に演説し、先の大戦の反省に言及した上で、未来志向でアジア・アフリカの平和と繁栄に今後も貢献していく考えを表明した。

 首相は、1955年のバンドン会議で採択された「バンドン10原則」から「侵略または侵略の脅威、武力行為によって他国の領土保全や政治的独立を侵さない」「国際紛争は平和的手段によって解決する」とした部分に言及。「この原則を、日本は先の大戦の深い反省とともに、いかなる時でも守り抜く国であろうと誓った」と強調した。

 「侵略」との表現は、10原則を引用する形で使ったものの、先の大戦での日本の行為としての文脈では触れなかった。

 また、人材育成について「未来への投資だ」と訴え、「成長を牽引(けんいん)するのは人材だ。アジアやアフリカの意欲あふれる若者たちを産業発展を担う人材へと育てていく」と表明。今後5年間で35万人を対象にした人材育成支援を実施する方針を示した。

 首脳会議には、日本や中国など約30カ国から首脳級が出席。米国やロシアなどオブザーバー参加を含めると、100カ国以上から代表が参加した。世界経済を牽引するアジアと、巨大市場を抱え潜在力のあるアフリカの協力関係強化などを盛り込んだ文書を採択し、23日に閉幕する。・・・とある。

朝日新聞やNHKなどは
“2005年の50周年首脳会議では、当時の小泉純一郎首相が演説し、「村山談話」の文言を引用しながら「植民地支配と侵略」「痛切なる反省と心からのおわび」などに言及し同年夏の「小泉談話」につながった。”ことを強調し、歴史認識で安倍総理にイチャモンをつけている中国の習近平主席にエールを送っていたのが印象的であった。



そもそも第一回バンドン会議では出席した各国首脳は何を話したのか????

2015年2月27日のヤマちゃん日記<バンドン会議>
http://yamatyan369.seesaa.net/article/414733950.html
から引用してみよう。
〜〜〜引用開始〜〜〜
<バンドン会議.>

終戦10年後の1955年インドネシアのバンドンでアジア・アフリカの29ヵ国が集う第一回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)が、開催された。この会議は第二次世界大戦後に独立したインドのネルー首相、インドネシア大統領スカルノ、中華人民共和国首相周恩来、エジプト大統領ナセルが中心となって開催を目指した。

この会議において、会議参加国の代表達は、“いま、こうして我々が米英などの白人国家と対等に話ができるのは、大東亜戦争で彼らと戦った日本のおかげだ。もし日本があれだけの犠牲を払って戦ってくれなかったら、我々は今もイギリスやオランダの植民地のままだった。日本は今後ともアジアのリーダーとして頑張ってもらいたい”と賛辞を浴びせた というのだ。

記念すべき第一回バンドン会議は、このように白人国家の欧米列強からの横暴・搾取に対し敢然と立ち向かい大東亜戦争を勇敢に戦った日本への評価、感謝、賞賛が確認される場であったのである。
〜〜〜引用終わり〜〜〜

さらにブログ『かって日本は美しかった』2009年3月18日
http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/12661796.html
より引用する。

〜〜〜〜引用始め〜〜〜〜
「自らの身は顧みず」田母神俊雄著より バンドン会議で謝罪の愚

 1955年(昭和30年)になると、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ二十九カ国が集まって、国際会議が開かれた。参加国は戦後独立した国がほとんどで、「黄色と黒の団結」と独立をアピールする会となった。この会はインドネシア(スカルノ大統領)の提唱で、コロンボ・グループと呼ばれたビルマ、セイロン、インド、インドネシア、パキスタンの五カ国が招請国となった。
 参加国はそのほかに、アフガニスタン、カンボジア、中華人民共和国、エジプト、エチオピア、ゴールドコースト、イラン、イラク、日本、ヨルダン、ラオス、レバノン、リベリア、リビア、ネパール、フィリピン、サウジアラビア、スーダン、シリア、タイ、トルコ、ベトナム民主共和国、ベトナム共和国、イエメン、ほかにオブザーバーとして数カ国が加わった。

 日本は高崎達之助経済審議庁長官を代表として十数名が参加したが、他国はいずれも元首、首相級が出席し、政府レベルの国際会議となった。出席者のなかには周恩来、インドのネール、エジプトのナセル等の顔もあった。加瀬俊一外務相参与(後に国連大使となる)は、外務大臣代理で出席したのだが、その時の模様を次のように語っている。

「この会議の主催者から、出席の案内が来た。日本政府は参加を躊躇していた。アメリカへの気兼ねもあったが、何分現地には反日感情が強いに違いない、と覆っていた。私は強く出席を勧めて遂に参加が実現した。出てみるとアフリカからもアジアの各国も『よく来てくれた』『日本のおかげだ』と大歓迎を受けた。日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々はいまもイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった。それにあの時出した『大東亜共同宣言』がよかった。大東亜戦争の目的を鮮明に打ち出してくれた。『アジア民族のための日本の勇戦とその意義を打ち出した大東亜共同宣言は歴史に輝く』と大変なもて方であった。やっぱり出席してよかった。日本が国連に加盟できたのもアジア、アフリカ諸国の熱烈な応援があったからだ。
 ところがこのように評価されている大東亜戦争の勇戦や、大東亜会議の意義だが、日本のマスコミや学会では取り上げられない。この辺にも日本の歴史認識や外交の未熟さがあるように思われてならない」


 この話は平成十九年に無くなった名越二荒之助氏の「昭和の戦争記念館第5巻」(展転社)に掲載されているものだ。
〜〜〜引用終わり〜〜〜

大東亜戦争終戦直後から1951年4月11日まで連合軍最高司令官として日本占領を取り仕切ったダグラス・マッカーサーは、引退後の1951年5月3日、上院軍事外交共同委員会で朝鮮戦争における中華人民共和国へ対しての海上封鎖戦略についての証言の中で、以下のように“大東亜戦争は日本が始めた侵略戦争ではなく日本の自衛=安全保障=の為の戦争だった”・・・と証言した。
〜〜〜答弁始め〜〜〜
There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack great many other things, all of which was in the Asiatic basin.
They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore in going to war was largely dictated by security.
(蚕を除けば、日本原産のものは実質的に何もありません。彼らはウールを欠いている、綿を欠いている。彼らは、石油製品が不足している。彼らは、スズを欠いている、彼らはゴムを欠いている、彼らはアジア地域に存在する多くの物資を欠いている。彼らは、それらの供給が断たれた場合、日本では1千万から1千2百万までの人々が失業するだろうと恐れていた。戦争に突入した彼らの目的は、主に安全保障(security)上の観点からのものであった。)
〜〜〜答弁終わり〜〜〜

ところが、2005年の50周年アジア・アフリカ首脳会議(バンドン会議)で当時の小泉純一郎首相は、村山談話を引用して、「(日本は)植民地支配と侵略によって、アジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」と公式に植民地支配を認め、「痛切な反省の意」と「心からのおわびの気持ち」を表明したのだ。

村山談話とは、1995年(平成7年)8月15日、第81代内閣総理大臣の村山富市が、閣議決定に基づいて発表した声明であり、「(日本は)国策を誤り植民地支配と侵略によって、アジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」と公式に植民地支配を認め、「痛切な反省の意」と「心からのおわびの気持ち」を表明する・・・という内容が問題にされるくだりだ。

第一回バンドン会議では、白人国家の欧米列強からの横暴・搾取に対し敢然と立ち向かい大東亜戦争を勇敢に戦った日本への評価、感謝、賞賛が確認されたのに、社会党出身の村山元首相は何故日本を侵略国と断定したのであろうか???

日本が国策を誤ったという具体例を示すように求められた村山元首相は返答に窮した・・・という情報もある。

村山談話の発表後、村山首相がマレーシアを訪れた時、マハティール首相に「迷惑をかけた」と謝ったら、「なぜ謝るのか理解に苦しむ」と言われました。

マハティール首相は日本が侵略国家であったとする村山談話を誤りだとしてたしなめたのでしたが、マーレシアを支配していた英国軍を日本軍が大東亜戦争で打ち負かした事実を村山富市元首相は知りませんでした。村山富市元首相は史実を調べもせずに、個人的に崇拝する自虐史観だけを根拠にして『日本は大東亜戦争でアジアを侵略支配した』と決め付け無理矢理に閣議意決定したのが実態です。


村山富市元首相は当時の衆議院議長の土井たか子と組んで“日本がアジア諸国を侵略し植民地支配した”という国会議決を当初目論んでいました。衆議院議長の土井たか子は本日は国会議決は無いので議員の皆さんは地元に帰ってもよろしい旨通知し自民党議員を騙し、事前に示し合わせて居残った革新系議員のみで “日本がアジア諸国を侵略し植民地支配した”という内容の決議案をわずか6分で可決(欠席265名、出席230名)させました。

この土井たか子の詐欺的行為を知った議員達が騒ぎ出し参議院ではこの決議案は採択されなかったので、村山富市と土井たか子が狙った国会議決は失敗に終わりました。やむなく村山富市元首相は村山談話を抜き打ち的に発表して有無を言わせず閣議決定したのが村山談話発表の真相です。


国会は立法機関であり、思想信条の自由と密接に関係する特定の歴史観を宣明する場ではない。それ以前の歴代内閣は、歴史の評価は後世に任せるべきで、総理大臣がその善悪を公表するような問題ではないという姿勢でした。しかし村山富市首相は歴代内閣の良識を踏みにじり、戦後50年目の終戦記念日に備え村山談話を強引に閣議決定させました。

阪神大震災では村山富市首相は心情的に自衛隊の出動を嫌がり、遅らせた結果多くの犠牲者が増えた・・・と非難されました。

また親日国家パラオが独立した際、パラオが台湾を承認しているのを理由にして中国に気兼ねして祝電を送らず親日国家パラオ国民の顰蹙を買いました。

首相退任後旧社会党を社会民主党に仕立て直し党首に納まったのが村山富市でした。土井たか子は村山の後を継いで社会民主党の党首になりました。社会民主党といえばバリバリの反日左翼政党です。土井たか子北朝鮮人説は別としても彼女の反日ぶりはとうてい日本人のものとは思えません。

この村山談話は諸橋茂一さんによって談話の正当性を問われ村山首相を相手にして東京地裁に提訴し、最高裁まで争われた。この裁判で、村山富市は6人の弁護士を立てても、村山談話の正当性に関して一言も説明出来なかったのです。

村山談話というのは談話を出した本人も理解できていないとんでもないインチキ談話だったのです。

村山富市という人物は、自分が信じる主義主張(反日左翼思想)を日本国民・国益よりも上においた人物だったことがはっきりしています。



首相談話でも一旦世に出れば、その後談話をひっくり返すことが難しいことは、村山富市はしっかり認識していたフシがあります。

http://okwave.jp/qa/q5946630.html
から引用する。
〜〜〜引用開始〜〜〜
「そうじゃのう」村山富市 インタビュー辻元清美 第三書館刊 発行者 北川明(辻本の内縁の夫:元赤軍派)
辻元 私たちも政府・自民党に迫っていくときに、「あの談話を踏襲しているんですよね」と質問を必ず予算委員会でもするんですよ。そうしたら、向こうは「はい、そうです」と。
 村山 否定せんわな。
 辻元 言わざるを得ないので。
 村山 そうじゃ、そうじゃ。
 辻元 一回やっておくと効果は大きい。
 村山 それはそうじゃ。一貫してそれを否定できんことになるから。
 辻元 そうですね。
 村山 あの談話は、僕はそれなりに意味があったと思うね
〜〜〜引用終わり〜〜〜

元赤軍派を夫に持つ辻元清美はバリバリに反日左翼政治家です。
このような辻元清美との対談を楽しんでいる村山富市もバリバリの反日左翼だとわかります。


それにしても、村山首相以降の歴代首相は全てこのインチキ村山談話を継承しています。

安倍総理だけは第二次安倍内閣発足当時には、河野談話と村山談話の見直しを叫んでいました。

しかし最近ではいずれの見直し論議もトーンダウンしてきた感がある。

戦後スキームからの脱却を昔から掲げている安部総理でさえ、ようやく“侵略に対するお詫び、植民地支配”という台詞を入れなかったが、反省という文言を入れざるを得なかったものと解釈します。

なぜなら、中国、韓国以外に米国までが『大東亜戦争で日本はアジアを侵略した』という主張をするからです。

安倍首相が靖国参拝をした後、米国国務省は『失望した』と表明しました。米国も中国、韓国と共に日本国首相の靖国参拝に反対しているのです。米国は東京裁判では日本に『大東亜戦争で日本はアジアを侵略した』という濡れ衣の罪をかぶせた手前もある。米国はいまさら“先の大戦で日本は自衛戦争を戦った”とは認めたくないであろう。

日米首脳会談を真近に控えた安倍首相としては、アジア・アフリカ会議で『反省』という文言を入れざるを得なかったのではないだろうか。。。

しかし、ここ20年で公開され始めた機密情報によって、“コミンテルンの策謀に乗せられた欧米諸国と中華民国が日本を大東亜戦争に引きずりこんだ”という事実が鮮明になった現在においては、従来通り『日本は大東亜戦争でアジア諸国を侵略した』という誤った歴史認識である村山談話をひたすら継続するのは愚策でしかないであろう。

2010年8月16日のヤマちゃん日記
http://yamatyan369.seesaa.net/article/159620474.html
後半に「第2次世界大戦における日本のアジアに対する加害責任」は歴史的に誤りであるの事を理由を挙げて示した。

2010年1月12日のヤマちゃん日記
http://yamatyan369.seesaa.net/article/138064308.html 
に日本は侵略国家ではなかったことを証明した。

1990年頃から第2次世界大戦開始にかかわる秘密文書や書籍が公開され始めた。
ロバート・B・スティネット著『真珠湾の真実』や『ベロナ文書』などである。
これらの文献を見れば“日本は侵略国家ではなかった”のが一目瞭然となります!!!


国防を米国にまかせっきりでは、いつまで経っても日本は米国の属国でしかないであろう。

米国の力が衰えだした現在、“日本は自分の国は自分で守る”という気概を内外に示さなくてはならない。

そのためには早急に日本は憲法9条を廃棄し、核兵器・ミサイルを保有せねばならない。

そうすれば、中国、韓国、北朝鮮は日本に対する態度をいっぺんに軟化させるだろう。
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2015年04月20日

高羽ヶ岳にて整備登山す

<4月16日(木)>


雨は降らなかったので、4月11日に続いて高羽ヶ岳に登り整備登山した。

豊田・鹿野大規模林道登山口から登り始め通行の邪魔になる枝や通路に生えた笹を刈り取りながら進んだ。

4月11日に再発見したお薦め絶景場所の687mピーク付近では視界の邪魔になる笹や小枝を刈り払ったので眺めはさらに良くなった。

次いで山頂に至りここでも南側の視界を遮る笹と枝を刈り払った。笹薮の中に古い切株があったので、おそらく数年以上前に先人が視界を邪魔した立木を伐採したことがはっきりと窺われた。

比較的にフラットな山頂一帯は、笹原の中に立木がそこかしこ林立している。

このような山頂で一定の視野角以上の眺めを得るのは簡単ではないことが次第に判って来たので一計を案じた。

丁度山頂の南端に高さ3m程度の馬酔木の成木が2,3本生えており、その上適当な高さに二股が複数個あったのを利用して、横木を2本二股に渡して立木に登って展望できるような2段の足場を作った。

上の方の足場の高さは概ね2m位であったが、この上に立つと地上からよりもはるかに優れた眺めが得られたので思わず嬉しくなった。
DSCN0542.JPG

帰りは、古くなった赤テープの場所で新しく赤テープを貼り付けながら下った。

登山道ではないが、大規模林道の下り車線をを塞いでいた倒れた松を切断して整理して、通行可能にした。
DSCN0544.JPG 

DSCN0545.JPG <AFTER:倒木を除去した車道>


<4月17日(金)>


この日は快晴で絶好の山行日和であったが、カミサンが車を使う予定があったので、予てから不審に思っていた案件を調べることにした。

本年2月原子力規制委員会が行った新規制基準に基づく安全審査に「合格」し、再稼働に向けた手続きが進んでいる関西電力高浜原発3、4号機(福井県高浜町)をめぐり、福井、大阪など4府県の住民9人が再稼働の差し止めを申し立てた仮処分で、福井地裁(樋口英明裁判長)は4月14日、「新規制基準は緩やかすぎ、基準に適合しても安全性が確保されているとはいえない」として、再稼働を認めない決定をした。この福井地裁の判決は、専門的な知見に基づいて2基の安全性を認めた原子力規制委員会の行政判断を真っ向から否定したものである。

『原発の安全性に関しては専門知識のない裁判所が原発の安全性に関する判断は行わず、原発安全性の判断は原子力規制委員会の判断に委ねる』という最高裁指針に違反してまで、今回福井地裁が、原子力規制委員会が安全性を認めた高浜原発3,4号の安全性を否認し再稼動を認めない判決を下したこと自体馬鹿げているので、この裁判の判決は全く奇怪であり、何か隠された裏があるものと強く感じ15日から調べ始めた経緯があった。




<4月18日(土)>
天候は晴れなので、16日に引き続き高羽ヶ岳の整備登山に出かけた。

今回は、高羽ヶ岳の双耳峰を構成する北東側のピークに至り優れた眺望スポットがあるか否かを探す目的があった。

この北東側のピークに至るには猛烈に繁茂した笹原のなかをおよそ20m程度踏み跡なきルートを進まなければならないのでここを訪れる人は殆どいないものと思われた。

山頂到着後、北東側のピークを目指して最小限の幅の笹原をカッターで刈り払いながら1時間掛けて2個の猪の寝床???があったピークに達したが、それほど良い眺望は期待できないことがわかった。

仕方がないので、4月16日に作った展望台からの眺望を良くするために北東側にあった枯松など3本を切り倒した。

その結果北東方方向では弟見山辺りまで眺められるようになった。
DSCN0554.JPG <展望立木から弟見山方面を望む>

DSCN0557.JPG <展望立木から石ヶ岳方面を望む>

因みに、弟見山から時計周りに眺められた峰々は、莇ヶ岳、高岳、日暮ヶ岳、長野山、馬糞ヶ岳、石ヶ岳、金峰山、烏帽子岳、徳山湾、四熊ヶ岳、大平山、狗留孫山、白石山、真田ヶ岳、山口尾、りょう巌寺山、龍門岳、物見ヶ岳・・・であり、視角は300度程度あるだろう。

帰宅後地図を見た所では、弟見山の西側奥にかすかに見えた山並は安蔵寺山方面であった。

とりあえず山頂と山頂の立木からの眺めはかなり良くなったと自画自賛しながら下山した。


もし、
往路:長門峡駅→林道終点→たたら川沿い登りルート→687mピーク→大規模林道・高羽ヶ岳縦走路→高羽ヶ岳
復路:高羽ヶ岳→大規模林道・高羽ヶ岳縦走路→たたら川沿い下りルート→林道終点→長門峡駅
という周回路が実現できれば、

687mピークで高羽ヶ岳の北半分が眺められ、高羽ヶ岳山頂の立木から高羽ヶ岳の北半分が眺められるので
独立峰としての高羽ヶ岳からの眺望を余すことなく堪能できるであろう。。。

この周回ルート完成のためには、往路での、
たたら川沿い登りルート→687mピーク・・・を再整備する必要がある。

機会があれば、この新規周回ルート完成に挑戦してみたい気が沸いてきた。

出来れば、案蔵寺山伊源谷コース沿いのダブル三段滝コース整備にも挑戦したい気もある。

公園ボランティアもある。

マア 無理をせず一歩一歩進むことだ。。。



posted by ヤマおやじ at 17:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月13日

日本と戦ったニミッツ米海軍提督はペリリュー島玉砕を激賞!!!

<4月9日(木)>


9時から12時まで公園ボランティア活動。
松公園で積み上げていた伐採済み雑木を堆積場に運んだ。

当初は、伐採済み雑木はチッパーで粉砕する予定であった。
もともとこのチッパーはI材木会社の所有であり、2年前に遊休中であったので公園ボランティアに無料で貸してくれたものだった。

どうも昨年秋あたりからチッパーの稼動が本格化したらしく、公園ボランティア活動でこのチッパーは事実上使えなくなってきた・・・という経緯がある。

よって、この日は当初チッパーで粉砕する予定であった伐採済み雑木を、堆積場に運ぶことにした。共同作業者はY氏だった。

あと一日の作業で運搬は終了するであろう。


<4月11日(土)>

天気予報では降水確率はゼロ!!!

美祢市別府弁天の池で天然水60リットルを戴き寸志として100円を納めた。

ついでだめもとで某所へタラの芽を採りに行った。先行者がかなり採取していた様子だったがかなり採取できた。

その後、前々から気になっていた高羽ヶ岳(標高761m)に大規模林道コースから登った。

高羽ヶ岳は独立峰であり本来360度パノラマがあってもおかしくないはず。

しかし山頂が笹薮と雑木に覆われているので、山頂からは大蔵岳くらいしか見えないのが現実である。

大平山周辺の600m級ピーク周回ルート整備がほぼ終わったので、次なるコース整備候補を最近探し始めた。

安蔵寺山伊源谷コースに滝見コース新設。展望地から直接湯野城山に向うコース新設・・・etc。
その中に高羽ヶ岳もあった。

先ず高羽ヶ岳山頂から物見ヶ岳へ向う縦走路入口で繁茂していた笹を刈り払った。

その後、狭い範囲ではあったが南側の笹と枯れた雑木を除去したところ、山頂からの南側の眺めが少しではあるが得られるようになった。

真田ヶ岳、山口尾、大平山はおろか、うっすらではあるが徳山湾の出光興産大浦貯油タンク群まで見えたので正直びっくりした。
DSCN0516.JPG

下山時も好天に恵まれてか687mピークから北から北東に向けて、黒獅子山、大蔵岳、十種ヶ峰、青野山、法師山、高岳山、弟見山、莇ヶ岳などが一望できたのには大いに感激した。
DSCN0523.JPG

特に比較的近い位置から十種ヶ峰、青野山を一度に見えたには新鮮であった。
やはり高羽ヶ岳は潜在的に素晴らしい眺望の持主であった!!!


<4月12日(日)>


9時30分頃から12時頃まで家庭菜園で、スイカのための畑作りを行った。

先ず畑に生えた雑草を除去した。

次に畑に直径80cmくらいの穴を2個掘り、石灰を撒き、醗酵牛糞、油粕、醗酵鶏糞、配合肥料を投入し、周囲の土壌と混合した。

最後に玉ねぎの畝を鍬で耕し、土中の空気連行を盛んにした。



<日本と戦ったニミッツ米海軍提督はペリリュー島玉砕を激賞>


4月9日午前、戦没者慰霊のため西太平洋のパラオを訪問中の天皇皇后両陛下は、太平洋戦争の激戦地だったペリリュー島を訪れ、日米の慰霊碑に供花されました。

同島では激しい地上戦で日本側約1万人、米側約1700人が戦死しました。
両陛下は戦場で犠牲になった全ての人々を追悼し、平和への願いを新たにされました。

ヤマちゃんおやじは、ペリリュー島という名前こそ知ってはいたが、この島で日米両軍間で大東亜戦争でも有数の大激戦が展開されたことはそれまで知らなかった。


本年4月9日に今上天皇陛下と美智子皇后陛下がペリリュー島を慰問されたお陰でペリリュー島で玉砕した英霊の愛国心溢れる奮戦の様子に接することができた感がある。


アメリカ軍は上陸前にはペリリュー島陥落はせいぜい二日か三日くらいだと考えていました。

ペリリュー島上陸部隊の世界最強と言われた海兵隊第一師団長リュバータス少将ですら、四日で占領出来ると言ったといわれています。

1944年9月12日、遂にアメリカ軍が大軍で襲い掛かります。

ペリリュー島の沖合約13キロに戦艦3隻、空母11隻、巡洋艦約20隻、駆逐艦約30隻、輸送船約50隻、その他合わせて200隻以上の大艦隊が襲来し、猛烈な艦砲射撃と艦載機による空爆を一斉に開始してきました。

その後3日間で島に撃ち込まれた砲弾は約17万発、重さにして約4000tにもなったと言われています。

この攻撃により小さなペリリュー島はその大半を焼き尽くし、ジャングルは丸裸にされましたが、地下壕陣地はびくともしませんでした。

当初数日で陥落すると言われたペリリュー島の日本軍守備隊は、一人の民間人の犠牲も出さずに72日間も持ちこたえ玉砕しました。

第二次世界大戦中のアメリカ太平洋艦隊司令長官および連合国軍の中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官として日本軍と戦ったチェスター・ニミッツ海軍提督(元帥)は、その著書『太平洋海戦史』(重松譲・富永謙吾共訳〉の中で、ペリリュー島の戦闘に相当のページをさき、

「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約四〇パーセント〉を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」・・・と結んでいます。

そして昭和五十七年五月には、「青年神職南洋群島慰霊巡拝団」(清流社会長・滑川 裕二(なめかわゆうじ)氏主催)二十名が、船坂弘(ふなさかひろし)氏の助力を得て、ペリリュー神社を創建しました。すべて日本から運搬した材料を使い、島民の多大の協力を得て、十日間を費して完成しました。御祭神は天照大神と戦死者一万余名の「護国の英霊」です。現在、神社前の左の掲示板には、ペリリュー島のイサオ・シゲオ尊長(そんちょう)によってこの趣旨が書かれています。そして右の掲示板には、戦闘の経過が要約され、米国公刊戦史に載っているチェスター・ニミッツ海軍提督の言葉として、次の詩的な一文で結ばれています。

「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」

 この詩は、戦終ればかつて敵であった日本軍の忠勇武烈ぶりを、このように讃えております。そしてこの島を訪れる旅人に、その勇戦ぶりを伝えてくれ、と戦死者に代って願っているのです。


日本のマスコミは、ペリリュウー島日本守備隊の奮闘振りを『戦争の狂気』『犬死』『無駄死』などと称し、蔑視しています。

NHKが2008年5月26日に放送した『ペリリュウー島終わり無き持久戦』においては、戦争の悲惨さを強調するだけに終始し、守備隊が将来の日本国を守る礎石として愛国心に基づいて英雄的に戦った事実を全く報道しませんでした。

戦争が悲惨なことは、17世紀以来世界中で戦争をエンジニアしてきたイルミナティ=国際金融資本家とその手先=以外の誰もがわかっている。

問題は“不要な戦争に巻き込まれない”ことである。

しかし、イルミナティ=国際金融資本家とその手先によって大東亜戦争に巻き込まれたかっての日本においては、敵であるイルミナティ=国際金融資本家とその手先である米英仏蘭支諸国と徹底して戦う以外残された道はなかったのである。

ペリリュウー島での勇気ある徹底抗戦は、硫黄島防衛戦、沖縄防衛戦、特攻攻撃などに引き継がれ、米軍ら連合軍に大いなる恐怖を与え、日本本土決戦を回避させる原動力になった。

仮に日本本土決戦となったならば日本では8000万も人の犠牲者が発生したものと言われている。
ペリリュウー島での勇気ある徹底抗戦は本土決戦回避に決定的な好影響を与えた英雄的行為であった。


名越二荒之助著、展転社刊、
「世界に生きる日本の心」より
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/nagoshi/palau.htm
ペリリュー島のサクラと神社
米国公刊戦史の讃えるもの
を転載します。

〜〜〜〜転載開始〜〜〜〜

世界の戦史と「玉砕戦
 大東亜戦争中、日本軍は、拉孟(らもう)、騰越(とうえつ)、ミートキーナ(いずれも中国大陸)をはじめ、太平洋の島々で玉砕するまで戦いました。玉砕の規模、そして戦死者数(私の計算では全部で八万数千)からすれば、これまでの世界の戦史に見られない壮絶さでした。

 このようなギリシャ悲劇にも見られない壮絶さは、特攻隊の出現と共に、世界の人々の驚きでした。当時、敵国であった蒋介石総統のごときは拉孟・騰越の攻囲軍に対して、「東洋道徳の範とせよ」と、訓令を発した程でした。このように全員が戦死するまで戦った事実は、精神の偉業として敬意を表し、日本人として心に深く刻んでおくべきことではありますまいか。

 私の知っているだけでも、ペルシャ戦争の時(西紀前四八〇年)、スパルタ王レオニダスは、テルモビレーの天険に於て、玉砕するまで戦い、それが今も世界戦史の語り草になっております。テルモピレーの玉砕数は三百五十、傭兵を含めて約千名。さらに西暦七四年には、群がるローマ軍を相手にマサダの丘にたてこもり、ユダヤ人約九百六十人が玉砕しました。さらにアメリカには、アラモ砦の要塞を死守して玉砕(テキサス独立戦争・一八三六年)した二百五十人の例があります。

 これから紹介するのは、ペリリュー島の玉砕戦の中に生まれた物語の要約です。これは一部の人が忘れようとしても、人間の心を持つペリリュー島民に語り継がれ、やがて日本が正気をとり戻したら、我が国でも必ず教材化されるに違いありません。

世界で一番短い傑作 ”サクラ・サクラ″
 ペリリュー島というのは、パラオ諸島の中の小さな島です。南北九キロ、東西三キロ、高さ八〇メートル、全体で二〇平方キロの珊瑚礁からできた太平洋上の小島です。その平和な島で、第二次大戦の末期、日米両軍によって七十三日間に亘る死闘が繰り返されたのです。

 当時、日本軍はフィリピンを防衛するために、その島に東洋最大といわれる飛行場を建設していました。ペリリュー島は日本にとって、いわばフィリピン防衛の防波堤であったのです。昭和十九年になると、米軍は対日包囲網を圧縮してきました。米陸軍を指揮するマッカーサーにとって、フィリピンを攻略するためには、フィリピンの背後に位置するペリリュー島を奪取しなければ、戦況を有利に進めることはできませんでした。そこで、米太平洋艦隊を指揮するニミッツ提督は、マッカーサーの作戦を助けるために、第一海兵師団〈師団長、ウィリアム・H・リュバータス少将)にペリリュー島の占領を命令しました。さらに、勇名を以て鳴るハルゼー大将が指揮する第三艦隊約八百隻の艦艇が、海兵隊支援のために差し向けられました。

 これに対するペリリュー島を守備する日本軍は、水戸の第十四師団座下の歩兵第二聯隊を主力とした地区隊(隊長・中川州男(くにを)大佐)一万二千名。これまで太平洋の島々が攻撃された時、日本軍の持久期間が短かく次々玉砕しました。それは「水際撃退」を至上の戦法にしてきたからでもあります。その戦訓をいかし、ペリリューでは、内部に深く洞窟を構築して待機していました。

 既に制海権・制空権を手にしている米軍は、狭い小島に文字通り絨毯(じゅうたん)爆撃と艦砲射撃を加え、九月十五日、航空母艦を含む機動部隊を背景に、上陸作戦を敢行してきました。総兵力四万二千。それに対して、我が方は、二度までも上陸を阻止するほど勇戦しました。しかし衆寡敵せず、上陸を許してからは、予定通り五百の洞窟にこもって、持久戦に移りました。連日連夜、彼我肉迫する戦闘が続きました。我軍は弾丸や食糧の補給が続かなく、死傷者が続出しました。しかし七十三日間を持ちこたえ、健在者は僅か五十数名に減ってしまいました。

 そして十一月二十二日、中川隊長は、パラオ地区集団参謀長多田督知大佐宛、訣別の電報を打ちました。その一節ーーー。
 三、地区隊ハ本二十四日以降、統一アル戦闘ヲ打切リ、残ル健在者約五十名ヲ以テ遊撃戦闘ニ移行、飽ク迄持久ニ徹シ米奴撃滅ニ邁進セシム。重軽傷者中戦闘行動不能ナルモノハ自決セシム。
 四、将兵一同聖寿ノ万歳ヲ三唱、皇運ノ弥栄ヲ祈念シ奉ル。集団ノ益々ノ発展ヲ祈ル。

 二十四日、いよいよ全軍玉砕の時が迫りました。中川大佐、そして第十四師団から派遣されていた村井権治郎少将、飯田義栄中佐の三人は、それぞれ古式に則って割腹自決。三人のあっぱれな最期に続けと、最後の決死隊が組織されました。根本甲子郎大尉以下、傷だらけの五十五名は、夜鬼のごとくになって突撃してゆきました。米海兵隊公刊戦史によれば、「日本の斬込隊の一団は、米軍の包囲圏を突破できず、二十四日の夜から二十七日七時頃までの間に米軍と激しく交戦、全員玉砕した」とあります。そして、軍旗も機密書類も焼却したことを意味する最後の電文「サクラ・サクラ」が、パラオ本部に届いたのは、二十四日の十六時でした。この六文字の電文は、ペリリュー守備隊全員が、桜花のごとく散ったことを意味するのです

 それは、一万人の死をもって謳いあげた世界で最も短かく簡潔な詩といえましょう。これ以上に余韻をもった傑作は、他に例を見ないのではありますまいか〈中川大佐は戦死して二階級特進、中将となる。墓は郷里熊本県にある)。

オレンジ・ビーチのいわれ
 我が軍としては、二十四日をもってペリリュー島は玉砕したものと確認していました。ところが、中川隊長の最期や命令を知るすべもなかった西海岸守備隊は、その後も抵抗を続けました。米軍から武器弾薬はもとより食糧衣類を奪い、神出鬼没のゲリラ戦を続けていました。山口永少尉以下、陸海軍の生き残り兵三十四名。それも敗戦後の昭和二十二年四月二十二日まで、彼らはおよそ二年半にわたって戦闘を続行したのでした。
 この生き残り兵の大半は、最初米軍が西海岸に上陸した時、最も果敢に戦った勇者たちでした。米軍は占領後、激戦の行われた西海岸をオレンジ・ビーチと名づけました。それは、アメリカ兵の血で美しい珊瑚の海面がオレンジ色に染まったからだ、といいます。現在「オレンジ・ビーチ」は、ペリリュー島の正式名になっております。

 ニミッツ提督はその著『太平洋海戦史』(重松譲・富永謙吾共訳〉の中で、ペリリュー島の戦闘に相当のページをさき、次のように結んでいます。

「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約四〇パーセント〉を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」

ペリリュー神社と米公刊戦史の詩文
 ここで特筆しておかねばならないことがあります。ペリリュー島には、それまで現地住民が住んでいました。島民は白人の統治と日本時代を身をもって経験しているので、大人も子供も、日本軍と一緒に戦う決意を持っていました。しかし日本軍としては、住民を戦火に巻き込んではならないという配慮から、船舶の乏しい中、空襲を避けつつ夜間を利用して全員をパラオ本島に退避させました。

 この誠意が通じたのか、戦いが終って帰島した彼らは、日本人の遺体を見て泣きました。「アメリカ人は、日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに、征服民族の本性を見る」として、島民はこぞって日本軍の遺体を葬りました。日本の人達がいつ来てもよいようにと、その後も墓地の清掃に心掛けました。

 現在も島民の親日感情は極めて強く、沖山豊美(やまとよみ)という日本名を持つ女史は、日本統治時代をなつかしみ、「愛国行進曲」を間違わずに歌ってみせ日本人と見れば、
「日本という国は何千年来の伝統を持ち、独自の文化を創りあげてきた。その結晶が天皇と教育勅語だ」
という趣旨を、熱っぼく語り、日本人の度胆を抜くそうです。

 さらに彼らは、ペリリューを守って玉砕した一万人余の英霊を決して忘れていません。日本から遺骨収拾に行くと、
「戦死者は母なる大地ペリリューに抱かれているのだ。収拾などしないで、静かに眠らせてほしい」
と言うそうです。

 現在、島の中央部に近い「島民墓地」の一角に、高さ約四メートルの「みたま碑」(三角錐型)が建っています。それを中心に、日本の各団体によって三十数基の慰霊碑が肩を寄せあうように建立されました。

 そして昭和五十七年五月には、「青年神職南洋群島慰霊巡拝団」(清流社会長・滑川 裕二(なめかわゆうじ)氏主催)二十名が、船坂弘(ふなさかひろし)氏の助力を得て、ペリリュー神社を創建しました。すべて日本から運搬した材料を使い、島民の多大の協力を得て、十日間を費して完成しました。御祭神は天照大神と戦死者一万余名の「護国の英霊」です。

現在、神社前の左の掲示板には、ペリリュー島のイサオ・シゲオ尊長(そんちょう)によってこの趣旨が書かれています。そして右の掲示板には、戦闘の経過が要約され、米国公刊戦史に載っているとして、次の詩的な一文で結ばれています。

「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」

 この詩は、戦終ればかつて敵であった日本軍の忠勇武烈ぶりを、このように讃えております。そしてこの島を訪れる旅人に、その勇戦ぶりを伝えてくれ、と戦死者に代って願っているのです。

 私はこの印象的な英文を確認したいと思って、『米公刊戦史・海兵隊史』を捜して貰いましたが、見つかりません。ニミッツの『太平洋海戦史』にも、載っておりません。この文章は一種の詩だから、戦史としては、ふさわしくないとも言えます。それでは、どこに載っているのか。

 文献あさりをしていた時、浦茂氏(元・航空幕僚長〉から教えられました。浦氏が昭和五十九年に渡米し、ニミッツの資料を求めて、アナポリス海軍兵学校を訪れました。その時、教官からニミッツの詩として教えられた英文は、次のようなものでした。
Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.


ペ島の桜を讃える歌
 最後に島民の登場を願いましょう。昭和五十六年一月、パラオ共和国が誕生した時、日の丸をデザイン化した国旗を制定したことは、前章で触れました。それと共に、独立を記念して、ペリリュー島守備隊を讃える歌も作りました。全文が船坂弘著『血風ペリリュー島』の「はしがき」の末尾に載っているので、ここに紹介します。作詩者はペリリュー島のオキヤマ・トヨミ、ショージ・シゲオの両氏。題は「ペ島の桜を讃える歌」です。
    一
激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
つわもの
強兵たちはみな散って
ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる
    二
小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない
    三
将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの”桜"に意味深し
    四
日本の”桜"は春いちど
見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の”桜"は散り散りに
玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
    五
今守備勇士(もののふ)の姿なく
残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で
我等勇士の霊魂(たま)守る 
    六
平和と自由の尊さを
身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る
    七
どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)し
あつい涙がこみあげる    
    八
戦友遺族の皆さまに
永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを
 ペリリュー島の玉砕戦を、日本の国花・桜に託し、見事に謳いあげた歌詞です。ペ島の勇者を弔う歌として、これ以上のものは作れないのではないか。守備隊員は、サクラ・サクラという最後の電文を打って、文字通り集団の桜花のように散っていったのです。島民からこのように讃えられて、一万の英霊も、もって冥することができるのではないか。

 私は深い感動に襲われながらも、桜を見たことのない島民が、日本語を使って、よくぞここまで作れたものだ。ひょっとしたら、著者の船坂さんが相当補作されたのではないかー―ー失礼ながらそんな疑問が湧いてきました。この疑問を率直に、著者に投げかけてみました。船坂さんの答は次のようなものでした。
「たしかに、ペリリュー島には桜はない。島民は殆んど桜を見たことがない。しかし、彼らは戦前日本の教育を受けている。それだけに、日本人よりも美しい桜ヘのイメージがある。それに彼らは、戦争直後、倒れた多数の軍人の遺体を葬り、今でも毎日一万の英霊と共に生活しているのだ。歌詞にあるように、ペ島はすべて墓地なのだ。それだけに、日本人以上の気持がこの歌詞となって結晶したと思うのだ。それを汲みとってほしい」
 この歌は同時に作曲もされました。作曲者は同島小学校副校長、ウィンティ氏。彼らは今もこの歌を愛唱しているそうです。
参考資料
• 船坂弘著『血風ペリリュー島』〈昭和56年7月、叢文社)滑川裕二著「ペリリュー神社再建由来記」〈昭和57年9月、ペリリュー神社奉賛会事務局)
• 第四回海外神社視察研修団「サイパン・パラオ戦没者慰霊の旅(報告書)」(昭和57年9月1日、神社本庁)
• 安田武・福島鋳郎編『記録・自決と玉砕』(昭和49年、新人物往来社)
• 津村忠臣著「聖戦・玉砕の島ペリリュー」(昭和60年5月1日、「戦中派」)

palau.htm 最終更新日:.
Copyright 1997 [名越二荒之助]. All rights reserved.
出典「世界に生きる日本の心 二十一世紀へのメッセージ」、定価2884円(本体2800円)
昭和62年・初版、平成6年・再版第5刷
展転社 〒113 東京都文京区本郷1ー28ー36ー301
Tel 03-3815-0721  Fax 03-3815-0786
〜〜〜〜転載終わり〜〜〜〜

ペリリュー島の玉砕戦は反日勢力,反日マスコミなどが断定的に宣伝する『悲惨な戦争』『犬死』『無駄死』などではありません。

ペリリュー島の玉砕戦は真の愛国者・勇者のなせる業であり、ペリリュー島の玉砕戦を戦った人達は英雄であり、英霊です。

だからこそ、連合国軍の中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官として日本軍と戦ったチェスター・ニミッツ海軍提督(元帥)は、「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」という詩文を残したのです。

この詩文は、ペルシャ戦争の時(西紀前四八〇年)、スパルタ王レオニダスは、テルモビレーの天険に於て玉砕するまで戦った故事に接して、ペルシャ王ダレイオスがその玉砕に敬意を表した詩文にそっくりだといわれています。

ニミッツは、アナポリスの海軍士官学校で学んだ今も世界戦史の語り草になっているスパルタ王レオニダスの見事な玉砕ぶりに比肩できるものとして、ペリリュー島の玉砕戦を詩文に残したのではないかといわれている。

名将のみがペリリュー島の玉砕戦の素晴らしさ=国民への偉大な愛に基づく勇気ある行動=を知り得るのであろう!!!

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2015年04月08日

AIIBは親中反日のリトマス試験紙

<4月4日(土)>


公園ボランティアメンバー3人を防府市大平山周辺の600m3峰周回コースに案内した。
昨夜は大雨が降ったが、この日は曇りだという天気予報なので、決行した。

当方が整備したルートを案内して欲しいと以前から言われていたので3月下旬から準備してきた。

平地では曇りであったが、大平山山頂近くにはガスが懸かっていた。
集合場所の大平山山頂公園を10時前に車で出発し農村公園から大平山・大谷山縦走路に入り、展望地を目指して歩き始めた。

当初案では、林道仏峠線入口から大平山・大谷山縦走路に入る予定だったが、昨日の降雨による急坂での滑りを危惧して急遽農村公園から歩き始めた。

ところが良かれと思って行ったルート変更が仇となったのは全く想定外だった。
大平山牧場牛舎を300~400m過ぎた辺りから三叉路までの間で、極最近実施されたと思しき地籍調査作業によって伐採された木の幹・枝が従来の登山道を塞いでいたため、通過するのに邪魔となる木の幹・枝を取り除かなくてはならないハメになった。

三叉路から先は問題なく進み11時30分頃展望地に着いた。
あいにくの曇り空のため、絶好の眺めとなる筈が見えたのは雲海のみ!!!

ここで小休止した。ところが夫婦連れ2人が昼食もドリンクも持参していないことが発覚した。

コンビニを見逃す内にコンビニで買物ができなかったという。。。
ガイドの当方が注意しなかったのが手落ちだったかもしれない!!!

しかし山の中ではどうしようもないので、当方持参のスポーツドリンク一本を進呈した。
更に1時間30分掛けて綾ヶ峰に行くことにした。

13時過ぎに晴れ間が顔を出した綾ヶ峰に着いた。ここでも昼食がない2人のためにムスビと饅頭を進呈した。もう一人のメンバーも彼らに食料を提供したので当方お手製のベンチ2脚に座り遅い昼食を採り、ようやく元気が出てきた。

快晴ではないものの瀬戸内海方面の眺めが得られたので、案内役として少し安堵した。
ここで30分程度写真を撮ったり風景を眺めたりして休憩した後下山し、山頂公園駐車場で無事に解散した。

曇りで眺めも余り良くなかった上に、伐採された幹・枝が一部のルートを覆うというアクシデントはあったものの大した事故もなく案内できたのでマアマア善し・・・としよう。

今回歩いたルートは、最大標高差が100m程度であり、余り脚に自信が無い人にとっても親しみ易いコースではないか???・・・と自画自賛している。


<4月5日(日)>


久しぶりに山菜取りに出かけた。
このところ雨天続きだったので山菜採りは10日位ご無沙汰していた。

タラの芽は、自分だけが知っていると思われる2箇所の場所では、全て葉が大きく成長し食用には向かない物ばかりであった。

他人が知っていると思われた場所3箇所では、全ての場所で先人が採取した後であった。
昨年からタラの芽採取では強力なライバルが出現し、当方は殆どの場所で先を越されている。遠からず自分が知っているタラの芽採取場所は全てライバルが知る所となるであろう。

今年はワラビが少ない感じがする。それでも毎年採取する2つの場所で100本程度採れた。


<4月7日(月)>


平地でのタラの芽シーズンは終わったので、高地でのタラの芽採取に出かけた。
この場所は、佐波川の支流の支流の上流で標高600〜700mの山地で3年前に偶然発見した。

駐車場から午後13時ごろ林道を歩いて登っていると、上流方向から下ってきた軽乗用車に乗った年配夫婦から挨拶された。この林道は過去5回通過しているが、いままで林業従事者の姿を一回みただけであり、一般通行者には出合ったことはなかった。

ひょっとすると、タラの芽採取の帰り道だったかもしれない。

標高600m辺りからタラの芽が姿を現し始めたが、他人が先に採った形跡がはっきりあった。
この場所で過去2回は自分が最初の採取者であったが、今年は最初ではなく2番手以降であった。
こんな山奥でも、タラの芽採取は競争相手が出現してきた!!!

リタイヤーした団塊の世代が山菜採りにいそしみ始めたのであろうか???

2番煎じではあったものの形の良い立派なタラの芽を40個位採れたのは幸いだった。
DSCN0514.JPG

林道の峠を越えると新しい発見があった。何とかっての一本道の林道から、新たな支線作りが開始されていた。

もう一つ新たな発見があった。

林道から直線距離で100mはなれた場所に高さ10mくらいの滝が見えた。いままでは人工林に遮られて見えなかったものが、人工林の伐採によってその滝の存在が明らかになったのだ。
DSCN0495.JPG

日当たりの良い場所にはヤマツツジがピンク色の花を咲かせていた。
DSCN0501.JPG

<AIIBは親中反日のリトマス試験紙>

4月7日(月)の夜のNHKニュースで、福田元総理が“中国が提唱したアジアインフラ銀行(AIIB)に参加すべきだ”と発言したことを大々的に報じていた。

福田元総理といえば、北朝鮮による拉致被害者団体を日朝友好親善の邪魔をする存在として非難したことでも有名な反日政治家である。

また福田元総理は、中国が頼りにする親中政治家7奉行としても、河野洋平と並んでトップを争うほどの親中反日政治家としても知る人ぞ知る存在でもある。

”自分がやって欲しくない事は相手に求めない”というのが福田元首相の主張だが、一個人の主張なれば許されるが、国民の財産と生命を預かる一国の首相の座右の銘としてははなはだ心もとない。

最近の日本では国益を理解できない一般人に毛の生えたような軽薄な人物が簡単に首相になる傾向がある。福田元首相もその一人であるが・・・・


また、週刊ダイヤモンド2015年4月11日号では、“日米完敗!地政学で読み解く新たなる中華覇権の衝撃”という見出しで、“日本がAIIBに参加すべし”とした記事を掲載している。

この週刊ダイヤモンドの記事では、財務省高官のコメントと米国のシンクタンク、外交問題評議会の論文を引用して、日本のAIIB参加を強く促している。

朝日新聞は中共べったりの支持派で、日本がAIIBに参加しないと「日米は孤立する」と中共の代弁者に徹している。

いずれも、英国、ドイツ、フランス、イタリアなどの欧州諸国がAIIBに参加したことを受けて、“バスに乗り遅れるな”的な論調と、習近平が唱える“ユーラシア共同体の発展”が基本となって、日本のAIIB参加を強く促している。

最も重要なのは、中国経済の今後である。
日本のAIIB参加を勧める連中は、“中国の経済の発展は未来永劫に続く”という仮説に立っている感がある。

果たして、中国経済の近未来展望は明るいのか???
中国ウオチャーとして著名な宮崎正弘氏の最新のメルマガを参考にして見る。

〜〜〜〜引用開始〜〜〜〜
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成27年(2015)4月8日(水曜日)
   通算第4511号  (前日発行)
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 人民元高が逆に中国経済のとどめを刺しかねない
  輸出低迷から壊滅、失業膨張、新卒の就労先は激減
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  中国経済の近未来展望はますます暗くなった。
 アジアインフラ投資銀行などと他国の面倒をみる余裕をなくすのは時間の問題ではないのか。

理由を七つ列挙してみる。
 

第一は通貨為替レートによる通貨戦争で、中国は負けが込んできたという意外な事実だ。
 通貨戦争という視点に立てば、中国人民元は三年前の日本円の立ち位置である。
 列強が通貨安競争を演じているときに日本だけがQEを実行しなかったため円高が続き、
日本企業は陸続と海外へ工場を移転させて国内景気を悪化さえ、失業者を増やした。白川日銀総裁は判断を間違えていたと批判が凄まじくあった。

 いま、米ドル高に引きつられて人民元も独歩高。1人民元は12円から、いまや20円。だから日本に旅行に来ても中国人が割安感を感じるという奇妙な景観も出現したのだ。
 しかし元高は同時に輸出競争力を失う。
 これにより外国企業は採算が合わなくなって「チャイナプラスワン」をスローガンに中国から撤退する。

 ますます中国は不況となり、失業が増える。2015年大学新卒は748万人、このうち150万人がいまだに就労先がない。北京の友人に聞くと、何のコネもない日本企業にも親が飛び込みで「息子を雇ってくれまいか」と聞きに来るそうな。

 国家統計局の発表する「失業率」は3−4%台である。これほどの出鱈目はない。農村から都会へ流れ込んだ流民は数千万人とされるが、みごとに失業統計に反映されていないのだ。
 
 第二に地方政府の債務が膨張してきたが、いっこうに解決のメドが立っていない。そればかりか、地方政府の一部に地方債権の起債を許可する有様である。地方債務の合計は320兆円、たぶん半分が不良債権かするだろう。
 くわえてシャドーバンキングならびに理財商品の償還期を迎えており、中国の債務総額はGDPの282%で、日本より悪いのだ。

 
 ▼中国国内の銀行が経営状態が悪化しているのに?

 第三に銀行の機構的再編の遅れ、機能不全、銀行倒産という悲惨な状態が出現した。銀行取り騒ぎが起きないのは「国家総動員法」により軍が出動できるからだ。
中国国内の銀行が経営状態が悪化しているにもかかわらず、対外的にAIIB設立してカネを貸しますとうのは整合性のある話ではない。

 第四に不動産バブルの破裂がいまや誰の目にも明らか、中国語の新聞は連日、こちらの深刻さを取り上げている。
  「庶民の夢」だったマンション購入は高嶺の花となり、もはや手が出ないというのに、他方でも豪華マンションが林立し、しかも誰も住まないゴーストタウン(鬼城)化している矛盾、これこそが一党独裁の社会主義国家が唱える「社会主義的市場経済」のなれの果てなのだが、その惨状を素直に直視できない(不忍直視)、夜は漆黒の闇と化け(夜晩黒漆漆)、これまでGDPの48%が投資、とくに12&が不動産といわれたのだが、その高度成長の牽引車が壊滅状態にある。

 第五に富の偏在、技術の偏在、沿岸部への工業変調による人口動態に異様な動きが出ていることである。
 英BBC中国語サイト(4月4日)に拠れば、 中国の資産5億元(約100億円)以上の富裕層はおよそ1万7000人いる。総資産額は31兆元(約620兆円)。この数字は中国の国内総生産(GDP)63兆6500億元(約1273兆円)の半分に相当する。
 民生銀行と胡潤研究院が発表した「2014〜2015年中国超富裕層の需要調査研究報告書」に従うと、中国の超富裕層の84%は男性で、平均年齢は51歳である。
 地域別では北京市、広東省、上海市、浙江省に集中し、所有する企業は製造業が全体の25%近くを占め、次いで不動産業、TMT(科学技術、メディア、通信産業)、サービス業、投資、重工業、製薬業、エネルギーの順番という。
 しかし超富裕層は汚職や横領の代名詞でもあり、「大富豪ランキング」に登場したとたんに逮捕され、死刑になった富豪もいる。大富豪ランキングは「死のランキング」とも呼ばれている。


 ▼庶民は社会福祉、生活保護、医療保険とまったく無縁である

 第六にこれほどの金満国家となっているのに社会福祉、生活保護、医療制度は問題だらけ、特権階級のみが社会福祉制度の恩恵にもあずかれるが庶民は蚊帳の外である。
 したがって民衆の党幹部への恨みは深く、こうした所得格差をすこしでも少なくしない限り、庶民、農民の一揆、暴力的抗議運動が納まることはないだろう。

第七に根絶できない腐敗の問題である。
 習近平が贅沢を禁止したため、ホテルやレストラン、豪華リゾートなど客足が途絶えた。有名レストランでも従業員の給与が支払えず休店に追い込まれ、豪華ホテルでも首切りが横行しはじめた。有名ブランド品も売れ行きはばったりと止まり、撤退か店舗縮小に踏み切ったところもでてきた。

 習近平の「虎も蠅も」という反腐敗キャンペーンは、かなりの大物を血祭りに上げ、庶民の拍手喝采をあびたものの、本物の「大虎」は野放しであり、結局の所、江沢民、李鵬、曽慶紅などを逮捕しないと、庶民の不満は収まらないだろう。

 それでなくともPPIは連続35ヶ月も下落しており、「住宅ローンを組んだ人の99%は破産するだろう」と預言して香港の著名エコノミストの朗喊平は「いかなる政策を断続的に維持し、かろうじて低成長を持続させることは不可能である」とし、市場の改革とは政治改革がなければ実現しない。習近平の唱える「新常態」は新しい南巡講話でとして機能しなければ意味がない」と獅子吼している。

 庶民レベルの経済感覚と見通しを聞いても、希望に満ちた明るい展望がきかれることはなくなった。

 こうした惨状の中国へ周回遅れで投資を拡大するドイツって、やっぱり神経がおかしいか、別の思惑が動機であろう。
〜〜〜〜引用終わり〜〜〜〜

朝日新聞、財務省、米国の外交問題評議会は、すべてイルミナティ=国際金融資本=グローバリズム=の手先、即ち日本の敵である。

朝日新聞、財務省、米国の外交問題評議会が、日本のAIIB参加を強く促している所を見ると、“日本のAIIB参加は日本の国益を大きく損なうことになる”と結論すべきである。

よって、日本のAIIB参加を強く促す勢力、団体、個人は全て親中反日だと断定できる。

中国経済の近未来は限りなく暗い!!!!
だからこそ、中国は不純な目的を秘してAIIB構想をぶち上げたのではないだろうか。。。

ヨーロッパ諸国は米国覇権に対抗する目的でEUを設立した。
しかし、昨今EUの矛盾、脆弱性がにわかに表面化し始めた。

ヨーロッパ諸国には安全保障上の心配はないので、米国覇権への対抗策のひとつとしてAIIBに参加表明した可能性もある。


日本のAIIB参加は、反日の格好のリトマス試験紙となる。

いくら美辞麗句を並べても、日本のAIIB参加を主張する輩・団体は、れっきとした親中反日勢力である。
posted by ヤマおやじ at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月03日

ドイツ航空機墜落は副操縦士だけの問題か? 格安航空会社のここが危ない!

<4月2日(木)>


9時から11時30分まで公園ボランティア活動。
例によって、雑木林の伐採を行った。

この日は好天に加えて、桜も満開、翌日の天気予報は雨というので、当方が駐車した直後公園駐車場は満杯となった。

午後は、常盤瑚周回道路を一周して桜を見物した。
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<4月3日(金)>


下関市菊川にある自家製野菜を使ったランチを食わす田舎レストランに出かけた。
やはり新鮮な野菜は旨かった。

夕方のニュースで墜落したドイツ格安航空機のフライトレコーダーが回収され解析の結果、副操縦士が機長がコックピットから退出した後高度を50mに設定したことが判明した。

おおかたの報道は、今回の事故は副操縦士個人の精神病に原因がある様な論調に終始している。

インターネットでは、マスコミの論調と異なるものが見つかったので、以下に紹介する。
MSNニュース
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%83%89%e3%82%a4%e3%83%84%e8%88%aa%e7%a9%ba%e6%a9%9f%e5%a2%9c%e8%90%bd%e3%81%af%e5%89%af%e6%93%8d%e7%b8%a6%e5%a3%ab%e3%81%a0%e3%81%91%e3%81%ae%e5%95%8f%e9%a1%8c%e3%81%8b%ef%bc%9f-%e6%a0%bc%e5%ae%89%e8%88%aa%e7%a9%ba%e4%bc%9a%e7%a4%be%ef%bc%88lcc%ef%bc%89%e3%81%ae%e3%81%93%e3%81%93%e3%81%8c%e5%8d%b1%e3%81%aa%e3%81%84%ef%bc%81/ar-AAabroy?ocid=U220DHP#page=2
から引用する。

〜〜〜〜引用開始〜〜〜〜
< ドイツ航空機墜落は副操縦士だけの問題か? 格安航空会社(LCC)のここが危ない! >


 乗客150人が犠牲となったドイツの格安航空会社(LCC)ジャーマンウイングス機の墜落事故で、あらためてLCCの安全性が問われている。これまでの調査によると、事故の原因は27歳の副操縦士が機長を操縦室から締め出し、意図的に機体を急降下させて墜落させた可能性が高いというものだった。独メディアの報道では、副操縦士には精神科の通院歴があり、自室から墜落事故が起きた日が「就労不可」だったとする診断書も見つかっているという。

 ジャーマンウイングス社はルフトハンザドイツ航空の子会社で、問題の副操縦士は2013年9月から勤務し、630時間の操縦経験があった。フランクフルト近郊の在住で、地元航空クラブのメンバーでもあった。パイロットになるのは子どものころからの夢だったのだ。ジャーマンウイングス社は操縦士の採用時に「精神面の安定」をチェックするが、採用後は定期的な健康診断を行うだけで「精神面での定期検査は実施していない」という。いまのところ、本人が病気を会社に隠していたとされている。

 LCCの安全性については、一般に「古い機材を使っているのは大丈夫か」といった声がよく聞かれる。今回、墜落した飛行機も24年間使用した中古のエアバスA320だ。だが、専門家によるとそれはさしたる問題ではないという。整備さえしっかりしてあれば、既存航空会社からの"おさがり"でも十分、安全運航は保たれる。最大の問題は、実は乗務員(とくにパイロット)の管理だという。そのことをいち早く指摘したのが『危ういハイテク機とLCCの真実』(扶桑社)だ。著者の杉江弘氏はボーイング747の乗務時間で世界一の記録を持ち、42年間JALでパイロットを務めた元機長だ。同書は2年前の13年5月に出版された。

 徹底したコストダウンと効率的なオペレーションで格安運賃を実現したLCCは、規制緩和を象徴するニュービジネスとしてもてはやされてきた。日本国内では地方空港活性化の起爆剤として期待と注目を集めている。そのせいもあって、安かろう悪かろうではないかといった不安の声や安全性に対する疑問はタブー視される傾向にあった。ジャーマンウイングス機の事故直後も『情報ライブ ミヤネ屋』(読売テレビ系)に呼ばれた著者の杉江氏がLCCの問題点を指摘すると、すかさず司会の宮根誠司氏が「まだ原因ははっきりしたわけではありませんので......」などと再三フォローする場面が見られた。本当にLCCの安全性は「問題なし」と言えるのか。

 以下、杉江氏の著書を元に点検してみよう。
 まず知っておいて欲しいのは、LCCはいったん破綻したビジネスモデルだということだ。同書によれば、最初のブームは1980年代から90年代にかけてのアメリカで起きたという。きっかけは78年の規制撤廃法の施行だった。この政策によっておびただしい数の新規航空企業が参入し、それまで全米で36社だった航空会社が233社に急増した。

 その結果、何が起きたか。まず最初の6年間で業界全体の整備費が30%削減された。FAA(米連邦航空局)が摘発した安全基準違反が84年に2万8864件だったものが、87年には6万3191件と2倍以上になってしまった。整備の手抜きは事故に直結する。「LCCといえども厳格な安全基準が定められているから、安全に関しては心配ない」という言説があるが、違反が増えれば元も子もない。実際、当時できたアメリカのLCCは事故を繰り返し、破産したり大手航空会社に吸収されたりして、ほとんどが姿を消すことになる。

 もっとも有名なのがバリュージェット社の事故と倒産劇だ。同社は93年に航空機2機で開業し、わずか3年で保有機数51、運行便数320と大躍進を遂げた。しかし、運賃を引き下げるため徹底的なコストダウンが行われた。機内食、座席指定、搭乗ラウンジ、マイレージなどは一切なく、人件費も抑えられた。パイロットは予定通りにフライトを終了した場合だけ給与が支払われるため、整備や天候に問題があってもフライトを強行した。整備はすべて外部のリペア・ステーション(FAA認定工場)に回し、コストのかかる自前の整備場や部品倉庫、整備士は持たないという徹底したものだった。

 バリュージェット社の緊急着陸の回数は、94年は15回だったが、翌年はなんと59回と急増した。ほとんど1日おきに緊急着陸を繰り返す時期もあり、大事故の発生は時間の問題とされていた。整備作業には18社の下請けがあり、そこからさらに約50社の孫請けへ回され、航空機の品質管理は下落の一途をたどっていった。そして、ついに起こるべく事故が起きたのだ。

 96年5月、マイアミでDC9が沼地に墜落して105人の乗客と5人の乗員が死亡した。現場はワニが生息する湿地帯で捜索活動が難航し、連日センセーショナルに報じられた。事故原因は貨物室に積み込まれた荷物が発火、煙がコックピットに充満したため、パイロットが操縦不能に陥ったというものだった。危険物のチェック不備や煙探知装置が装着されていなかったことなど、さまざまな点で安全に不備があった。バリュージェット社はこの事故がきっかけで信用を失い、ついに破産に至ったのだ。

 しかも、これはほんの一例に過ぎない。あの冬のワシントンのポトマック川に墜落したエア・フロリダをはじめ、ピープルエクスプレス、ノースイースタン航空などが次々と事故を起こし、多くの利用者が規制緩和と自由競争の犠牲となって命を落とした。これが第一次LCCブームの顛末だ。

著者の杉江氏は、当時のLCCと今のLCCはどこが違うのかを問う。本来ならば、この過去の失敗の教訓、とりわけ安全面での教訓をどう活かしているのかを航空会社や行政当局は明らかにする責任があるという。

〈しかし、残念ながらそのような議論はなく、LCCが航空の新しいページを開くがごとく、メディアでも扱われているのが現状だ〉(同書より)という。

 杉江氏が指摘する現状のLCCの問題点は3つある。整備の外注化と機材使い回しのオペレーション、そして乗務員(とくにパイロット)の待遇だ。

 航空機整備には大きな格納庫と整備人員が必要で、既存航空会社でもコスト削減のため一部を外部の専門会社に出す例もある。だが、LCCでは整備のほとんどすべてを外注するケースが珍しくない。こうなると、自社内で航空機の故障やトラブルと向き合う整備士のスキル向上という面でマイナスとなる。外注そのものが悪いということではなく、中長期的に人が育たなくなってしまうということなのだ。

 LCCの最大の特徴は効率のよい運航オペレーションにあるといっていい。保有機をいかに無駄なく使い回し、少ない機材で多くの便数を飛ばすことができるかが勝負だ。宿命的に予備機(問題が生じたときに備える代替機)をほとんど持たないことになる。便と便の間の地上滞在時間も少なければ少ないほどよいとされる。そうなると、いきおい整備上の問題が発見されても、無理をして飛ばそうということになりかねない。

 だが、杉江氏がもっとも危険だと警告しているのが「機械」より「人」に関する問題だ。なかでもパイロットの過労とモチベーションの低下は重大事故につながる可能性がある。効率的な運航のため、LCCでは1日に5回も6回もの離着陸を強いられる。〈そうなると、1日の最後の着陸ともなると疲労から集中力が欠けてくる恐れがある〉(同書より)。それだけではない。夜遅くにホテルにチェックインして朝早く乗務するというのも当たり前だ。地上滞在時間は短く、乗務と乗務の間に機長が客室清掃を手伝うこともあるほど慌ただしい。それでいて労働条件(給与)も決してよくないから、会社への帰属意識も低く、モチベーションが維持されない。健康管理面での支障が出る可能性は否定できない。

 93年8月にアメリカン・インターナショナル・エアウェイズ社のDC8・61型機がキューバのグアンタナモ海軍基地で滑走路手前の地面に激突し、炎上する事故が起きた。このときの機長はアトランタで深夜勤務を終えて自宅に帰る途中、会社から、前日に欠航となった貨物便をノーフォークまで運び、そこで貨物を搭載してグアンタナモ基地へ行き、その後、フリーでアトランタへ戻る勤務を指示された。機長は疲労を感じていたが、断ることができなかった。事故後の公聴会では、「ベースレグからファイナル(最終コース)へ旋回したとき、何となく無気力でどうでもいいような気分を感じたが、飛行場を探したか、パワーを増したか減らしたか覚えていない」と証言した。貨物便なので乗客はいなかったが、そら恐ろしい話である。

 2009年2月にはカナダのナイアガラの滝近くのバッファロー近郊でコルガン航空のボンバルディアQ400が落ち、乗客乗員と住宅地の住民計50人が死亡する事故があった。機首を上げて速度を増すべきところ、逆に下げて失速した。原因は、パイロットの訓練の欠落と過酷な労働条件による疲労だと指摘された。このときの副操縦士の年収は200万円以下ともいわれ、機長ともども遠隔通勤を余儀なくされていた。アメリカでは会社の拠点へ家族と一緒に引っ越すことを諦めて遠距離通勤をするパイロットが当たり前になっている。理由は給与が低いことに加え、いつまた会社が倒産したり、解雇されるかわからないからだ。

 こうした事例は決して対岸の火事ではない。背景には、LCCの参入による世界規模のパイロット不足がある。2014年には日本国内でもLCCのパイロット不足が深刻化し、大量欠航が相次いだ。ピーチ・アビエーションは年初から4月までに病気やけがに加え、航空法が定める身体検査の基準を満たせず就業できない機長が8人も出て、2000便余りが欠航した。そうしたことの影響か、同年4月には沖縄・那覇空港でエアバスA320が海面ギリギリを飛行する重大インシデント(事故に至らなかったが危険だった事例)を起こしている。

 航空会社にとってパイロット養成は大きなコスト負担だ。杉江氏の著書によると、例えばボーイング747で実機訓練を1時間行うと、着陸料の安いアメリカでも150万円はするという。消耗品のタイヤは1本50万円だ。そこで、実機訓練を大幅に削減し、シミュレーター中心に変更する動きが加速している。

さらに、規制を緩和し、簡易に副操縦士を養成できるMPL(マルチクルー・パイロット・ライセンス)が導入されようとしている。これは小型機でのわずかな訓練を終了した後、ジェット旅客機のシミュレーターでの訓練で取得できる、あくまで対象機種の副操縦士に特化した限定ライセンスだ。副操縦士になるには、これまでは最低でも4年かかったものが、MPLの導入で2年に短縮できるという。コストを極限まで抑えようとするLCC経営者にとって、これ以上ないシステムだ。

 しかし、いくらシミュレーターの性能が向上しても、実機の訓練に勝るものはないのは素人でもわかる。とくに横風の離着陸テクニックは、シミュレーターをいくらやってもマスターできるものではない。これ以上、実機訓練の削減を行ってはならないと、杉江氏は断言する。

 さて、ジャーマンウイングス機の墜落事故だが、問題の副操縦士が元交際相手の女性に「いつかすべてを変えてみせる。僕の名前を誰もが知り、記憶に残るだろう」と話していたと独大衆紙ビルトが報じている。副操縦士は勤務先への不満を募らせていたようで、元恋人の話では「ふだんは穏やかなのに、待遇や将来など仕事のことを語ると興奮して別人のようだった」という。「給料が安い」と怒りをぶちまける一方、契約が更新されるか異様に怯えていた。夜中に突然「墜落するッ!」などと叫んで目覚めることもあったという。

 杉江氏が指摘するLCCパイロット特有の不安定な待遇が事故の背景にあったのだろうか。今後の調査が気になるところだ。
(時田章広)
〜〜〜〜引用終わり〜〜〜〜


“廉いものはどこかで手抜きされている”
“廉かろう、悪かろう”

規制緩和という言葉には、肯定的な響きがある。

しかし日本でも規制緩和の弊害が随所に見られた。

一例を挙げると、長距離バスの規制緩和だ。
長距離バス事業は認可制から届出制となり大いに規制緩和された。

長距離バス事業参入への垣根が低くなり、多くの新規事業が参入して価格競争が激しくなり、利用者は一見格安料金の恩恵を受けたかに見えた。

しかし、運転手の長時間労働やバスの点検整備不足などを原因とする長距離バス事故が激増し、規制緩和以前ではあり得なかった重篤な事故が多発した。

“規制緩和という一見響きの良い言葉の裏には大きな危険(落とし穴)がある”と思わなくてはならない。

そして、マスコミの流す報道は単なる皮相的事実の羅列にすぎず、なんら内容に深みがなく進歩の”し”の字もない低脳情報だ・・・ということが毎度ながら痛感するしだいだ。
posted by ヤマおやじ at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月01日

『蛍の光』はレムリア最後の地で歌われた歌だった

<3月29日(金)>


満72歳の誕生日なので黒豚ローストンカツを食した。
どういうわけかご飯をお代わりした。
昔に育った人間はオカズが多いとどうしても飯が進む傾向があるのかも???

<3月30日(土)>

新しく整備する登山コースを探すべく、防府市大平山周辺を歩き回った。

標高605m展望地から北東に位置する無名峰(標高600m)から北方へ下り林道へ接続するルートを下見した。

踏み跡がない植林帯を稜線伝いに下り、急勾配を下ると標高500mあたりで幅1m程度のトラバース道に出合った。

地形図にないこの道は一体何処に繋がっているのか知りたくなり、このトラバース道を下ってみた。

一部崩れた部分はあるが、道に生えた雑木はそれほど大きく成長していなかったので比較的最近まで利用されていたと思われた。

通路を邪魔する雑木を刈り払いながらおよそ1.5 km程度下って行ったがトラバース道は延々と続く気配がしたので、途中から引き返した。

当初の狙いである新旧林道接合部に出会うコースを探る目的に戻り、ほぼ予定した地点に到着した。

問題は、トラバース道から新旧林道接合部に至るコースが相当急峻であるばかりか、崩れ易い土質である所であった。

予定外のトラバース道探訪によって時間を費やしたので、予定していた湯野城山登山を諦めて、望海山に登って帰ることにした。

以前には、林道から望海山に至る登山口には白房が懸かっていたが、今回は除去されていた。旧林道の幅員拡張の際除去されたのかもしれない。

やはり登山口として印が欲しいので、登山道入口付近の立木に赤テープを目立つように貼り付けておいた。


望海山山頂には新しい看板が設置されていた。
DSCN0405.JPG

欲目ではないと思うが、望海山からの眺望も良いが、展望地からの眺望が一段上だと感じた。

望海山山頂からの新しい発見は、対面の展望地に至るコースの途中に生えた大檜は周囲の雑木よりも7,8mくらい高いことだった。

結局、展望地から新旧林道接合部に至るルートは確認出来たが、周回コースとしては一部急峻すぎる崩れ易い部分が気になったので周回コースとして整備する価値があるか否か更なる判断が必要と感じた。

今回また新たな古道に遭遇した。


<『蛍の光』はレムリア最後の地で歌われた歌だった>

NHKの朝の連続ドラマ『マッサン』が3月28日に終了した。ヒロインのエリーが死んだ場面で『蛍の光』のメロディが流れた。

『蛍の光』の美しくも哀調を帯びたメロディは、穏やかな希望も感じさせてくれる。

『蛍の光』の原曲はスコットランド民謡 「オールド・ラング・サイン」であるといわれている。

しかし、古代文明・古代大陸に大きな関心を持ってきたヤマちゃんおやじにとっては、<『蛍の光』はレムリア最後の地で歌われた歌だった>という記憶がはっきり蘇ってきた。

そのいわれは、
2007年12月26日のヤマちゃん日記
http://yamatyan369.seesaa.net/article/74729605.html
≪ 古代大陸・古代文明(10) 〜 レムリア大陸沈没 〜 ≫を参照されたい。

『蛍の光』がスコットランドに古くから伝わっていたということは、レムリア大陸が海中に沈没した後アトランティス大陸も大西洋に沈んだ時に聖職者が歌った『蛍の光』が運よくスコットランドで継承されてきたことを物語っている。

とすれば、アトランティス大陸が大西洋に沈没した時にスコットランドは運よく沈没を免れたのであろう。

古代ギリシャの哲人プラトンが存命中は、アトランティス大陸が大西洋に沈んだという事実は伝えられていた。

常識人はアトランティス大陸の存在を疑っているが、足立育朗著『真地球の歴史』にはアトランティス大陸の存在は明確に記載されている。

オレリア・ルイーズ・ジョーンズ著『レムリアの真実』によれば、今から2万5千年前アトランティスとレムリアの二つの文明がイデオロギーの相違から水爆による戦争を引き起こした。この戦争に勝者は無く、この戦争を契機に1万2000年前にまずレムリア大陸が沈没し、ついでその200年後にトランティス大陸も海中に姿を消した・・・とある。
posted by ヤマおやじ at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする