ヤマちゃんが思ったこと、トレッキング、源流探訪、不可思議現象、反日マスコミがスルーしたニュースなど様々なことについて書き留めます。

ヤマちゃん日記

2012年07月24日

信濃川・千曲川水源地標 & 甲武信ヶ岳 を歩く

信濃川は河川法上 日本一長い川である。

信濃川と呼ばれているのは新潟県域のみで、長野県にさかのぼると千曲川と呼ばれている。全長367キロメートルのうち、信濃川と呼ばれている部分が153キロメートルなのに対し、千曲川と呼ばれている部分は214キロメートルと千曲川の方が長い。

千曲川の源流は埼玉県・山梨県・長野県の県境に位置する甲武信ヶ岳の長野県側斜面(南佐久郡川上村)の 標高2160m地点にあり、千曲川・信濃川水源地標が設置されている。

信濃川の水源の標高は2475mであり、これは甲武信ヶ岳山頂の標高である。


甲武信ヶ岳山頂の南西に源流を発する笛吹川東沢は、国師ヶ岳に源を発する笛吹川西沢渓谷と一緒になり更に釜無川と合流し日本三大急流の一つ富士川となって太平洋は駿河湾に流れ込む。

甲武信ヶ岳山頂の北東から湧き出た荒川は多くの支流を集め東京湾に至る。荒川の水源の標高は2475mであり、これは甲武信ヶ岳の山頂の標高である。

まさに甲武信ヶ岳は、信濃川・千曲川、富士川・笛吹川、荒川という日本の代表的な大河川の母なる水源であり、よって 甲武信ヶ岳は正に日本を代表する大分水嶺と言える。

長野県南佐久郡川上村の信濃川・千曲川水源地標と甲武信ヶ岳探訪は、ヤマちゃんおやじが水源に関心を持ち始めて十数年来の夢であり宿願でもあった。

よって利根川源流探訪と期を同じくして7月17日に信濃川・千曲川水源地標と甲武信ヶ岳探訪を実行に移した。

参考ながら分水嶺という意味では、平ヶ岳〜大水上山〜丹後山〜本谷山〜下津川山〜巻機山・・・と連なる分水嶺も太平洋と日本海とを分かつ日本を代表する大分水嶺と言えるだろう。



【信濃川・千曲川水源地標 & 甲武信ヶ岳 を歩く】
7月16日11時40分頃十字峡駐車場に到着し、7月15日早朝からの利根川水源探訪を無事におえた。

早速家族へ無事下山を連絡すると同時に、天候も良く体調も持ち直したので、翌日7月17日に信濃川・千曲川水源地標経由で 甲武信ヶ岳に登ることに決めたと伝えた。

直ちに、長野県南佐久郡川上村の白木屋旅館に電話し7月16日の宿泊予約を行った。
その後道路脇の食堂で昼食を採り、川上村の白木屋旅館に移動するため往路を引き返し六日町ICから関越道に入り、藤岡JCTから北信越道に入り小諸ICを出て国道144号線を清里方面に走った。

事前調査していたルートは、北信越道佐久小諸JCTから中部横断自動車道に入り南佐久ICまで行き国道144号へ入るものであったが、佐久小諸JCTで“○○に連絡していません”という看板が目に入ったため佐久小諸JCTを直進し結果的に小諸ICまで走ってしまった。

“つまらない些細な文言に左右されて折角十分に事前調査した結果を無視した”と走りながら自嘲した。換言すれば=些細なものに引きずられ本質を見失った=とも思われ過去の己の人生の一コマを思い出した。

佐久市内に入ると国道18号とか県道○号などの案内板が次々に現れ混乱したので、ビールを買うために入ったセブンイレブンにロードマップを持ち込み現在位置と国道144号へのルートを確認した。

無事に国道144号へ戻り、千曲川沿いに南下し海ノ口を過ぎて急坂を登った後の市場交差点を左折して川上村方面へ進み、JR信濃川上駅前を通過した後 県道68号に合流し『梓山』、『千曲川源流』などの標識に従いながら県道68号を東に走り高原野菜を大量生産するための大型トラックターが点在する広い畑の中を道なりに進んで梓山地区にある白木屋旅館に17時30分頃到着した。

2階の6畳一人部屋は十文字という名前であった。さっそく汗にまみれたシャツやタオルなどを洗いハンガーに吊り下げた。

連休最終日とあって宿泊客は少ない様子であり、一番風呂にはいり全身を丁寧に洗い汗や脂を取り除き、昨日痙攣を起こしたふくらはぎや太ももをマッサージすると久しぶりに爽快な気分になった。

岩魚の塩焼き、鯉のお作り、なます、山菜鍋、野菜サラダ等 地元の新鮮な食材を活かした夕食を肴に飲むビールが旨い。16日の夜は2日ぶりに熟睡できた。

翌7月17日5時ごろ起床、快晴だ。朝食を済ませ、前の晩旅館に頼んでいた氷結スポーツ飲料と冷えた缶ビールを受け取り保冷ケースに収納し帳場で料金を支払う際、女将が昨日甲武信ヶ岳に登られた方の話では頂上はガスで何も見えなかったとのことですが、今日は上天気で何よりですね と話していた。女将にお礼を述べて、6時30分頃 毛木平に向け出発した。

『千曲川源流』などの標識に従い車を進めることでトイレと東屋がある登山口毛木平駐車場(標高1460m)に着いた。駐車場は60台程度の収容が可能で既に5台が駐車していた。

DSCF6434.JPG  < 毛木平駐車場 >

ストレッチで体をほぐし7時頃毛木平を出発。7時35分頃林道終点の大山祇神社(標高1555m)に着き登山の安全を祈願して千曲川沿いに歩を進めた。

8時頃山津波でなくなった方々の慰霊碑(標高1611m)前を通過し、途中 登山道に流れ込む冷たい水流で顔を洗い、首筋を冷やしながら歩を進め9時20分頃ナメ滝(標高1780m)に到着し小休止した。

DSCF6443.JPG < ナメ滝 >

ナメ滝を流れる水量は半端ではなく滔々と流れているのを見て、水流が痩せ細る水源に至るまでには更に相当の距離を歩かなければならないだろうと感ぜられた。

やがて千曲川・信濃川水源地標まであと0.9qとの案内板が現れ雰囲気的には水源らしくなったが、歩けども歩けども到達せずようやく10時40分頃念願の千曲川・信濃川水源地標に着いた。

DSCF6444.JPG < 千曲川・信濃川水源地標 >

太い木製四角柱で出来た千曲川・信濃川水源地標の左側3m下に水源があった。白樺の木の根元付近の水源と思しき直径3〜4pの孔から透明な水がかなりの勢いで流れ出ており、この白樺の幹には先にコップが結び付けられた鎖が巻いてあった。

DSCF6445.JPG < 水源のコップ >

早速水源から流れ出る水をコップで3杯飲んだ。癖の無いまろやかな美味しい味がした。
この水源は山から山、谷から谷へと四囲のすべてを白い幹の針葉樹で囲まれており、水源から10m上流側では流れは涸れていた。

一方水源から30mも下ると流れはかなり大きな水流に成長していっぱしの沢を形成していた。

この一見平凡にも見える水源が日本一長い信濃川の水源かと思うと、あっけない印象がしないでもないが・・・・・広大な白い幹の針葉樹林に包まれた水源はなんのてらいも無い本物の水源の姿だった。

ここから標高差約200mの急登が始まるが,一昨日の十字峡から丹後山への連続急登に比べれば大したものには感ぜられず11時10分頃 奥秩父主縦走路(標高2355m)に出た。

DSCF6449.JPG < 奥秩父主縦走路 >

縦走路を左へ進みいったんなだらかに進んだ後 最後の標高差100m余の急坂を越えて11時40分頃甲武信ヶ岳頂上(標高2475m)に着いた。

西〜南西側には、国師ヶ岳(標高2592m)、金峰山(標高2595m)、瑞牆山(標高2230m)、その背後に南アルプスの一角が、北方眼前には三宝山(標高2483m)が、北西側には、五郎山(標高2132m)、八ヶ岳山麓が、南側には黒金山(標高2232m)、富士山麓などが見えた。

DSCF6451.JPG < 国師ヶ岳、金峰山、瑞牆山方面を望む >

富士山の中腹以上にはガスがかかり全景は見えなかった・・・あと2時間早く宿を出発していたら全山が見えたかもしれない!!!

景色を追ってそれほど広くもない山頂周辺を歩き回っていると、山梨県側から登って来たという40歳の男性が山頂に現れた。

埼玉県在住のこの男性は通常日帰りで周辺の山々を歩いており、来週は甲斐駒ヶ岳に登る予定といっていた。関東に住んでいれば奥秩父山地ばかりでなく南アルプスも日帰りできるとは羨ましい限りではある。。。

丁度昼時になったので、冷えた缶ビールで乾杯し、白木屋旅館が作った弁当を食った。山座同定をしていると、“目の前にある三宝山に行くと甲武信ヶ岳と富士山の両方が写真に納まる”という丹後山八合目でであった男性の言葉を思い出し件の男性に話した。


目の前に聳える三宝山は想像以上に大きな山塊であり、地図を拡げた埼玉在住の男性が甲武信ヶ岳から三宝山まで40分掛かるという。時間が不足気味な上に、富士山頂から中腹にかけてガスがかかり晴れそうもないので三宝山行きは断念した。

埼玉在住の男性が甲武信ヶ岳と書いた木柱をバックに写真を撮りたいというので、シャッター押しをやり、下山するという男性に挨拶し分かれた。

DSCF6450(1).JPG < 甲武信ヶ岳と書いた木柱 >

しつこく富士山頂のガスが晴れるのを待っていたが、逆にガスが甲武信ヶ岳に迫ってきたので、12時40分ごろ甲武信ヶ岳を出発し下山を始めた。

13時10分頃主縦走路分岐を通過し13時30分頃千曲川・信濃川水源地標に着き、周辺を15分間歩き回り名残りを惜しんだ。。。。気品すら感じる神々しい水源地であった。

DSCF6448.JPG < 気品すら感じる神々しい水源地 >

14時50分ナメ滝着。10分休み一気に歩を早めて下り、16時25分に毛木平駐車場に無事着いた。


下山途中今後の予定を考えた。明日の天気は下り坂らしい。

毛木平から甲武信ヶ岳山頂まで4時間40分掛かり、標準時間を40分オーバーした。余力があれば更に八ヶ岳、富士山をもトライするとしていたが、体力的にもかなり消耗している実感があった。

よって今回はこのまま中央自動車道を通り帰宅することに決定した。

毛木平を16時30分頃出発し県道68号を西に走りショッピングセンター『ナナーズ』を左折し野辺山方面への案内板に従い道なりに進み野辺山で国道144号に入り清里を過ぎ大門ダム付近で県道608号に入り西に進み国道20号の上蔦木交差点に出て諏訪方面に進み、セブンイレブンでパンとヨーグルトの夕食を済ませ仮眠に入った。

中々仮眠できないので近くのラブホテルに一人で入り休憩することも考えたが、結局22時前に諏訪南ICから中央自動車道に入り、いったん零時前に瑞浪ICから中央自動車道を出て、零時過ぎに再び瑞浪ICから中央自動車道に入り以降の長い高速道料金を深夜割引となるようにした。

概ね100〜200km進んでは仮眠を取りながら走ったが、吹田JCTで中国道に入るべき所を誤って阪神高速に入ってしまったので途中でかなりロスしたが、姫路バイパス、垂水JCT、三木JCTを経て山陽道に入り、仮眠を入れながら一路西へ走り山口南ICから一般道に出て12時30分ごろ無事自宅に着いた。。。。。

ヤマちゃんおやじにしては乾坤一擲ともいえる足掛け5日間にわたる二大水源探訪の旅は、多少のトラブルはあったものの無事に終わった!!!!

関りのあった色々な方々に感謝したい。。。。。そして天候にも。。。。。
posted by ヤマおやじ at 20:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月19日

丹後山、大水上山に登り、利根川水源碑、三角雪田を拝む

日本最大級の河川〜坂東太郎・利根川〜の水源といわれる大水上山に登り、利根川水源碑ともに最初の一滴が滴り落ちる三角雪田を自分の目で見るのは、源流探訪に関心を持ち始めた12〜3年前からの夢であり、宿願でもあった。

利根川上流河川事務所のホームページから引用すれば、

利根川は、信濃川に次いで日本で2番目に長い川。これは、 上越新幹線に置き換えると、東京〜新潟間とほぼ同じ距離になります。流域面積では日本一を誇る利根川。その面積は、埼玉県の約4倍、四国の約80%に匹敵します。

利根川の源流は、日本列島の背骨の一部である三国山地にある大水上山の南面の雪渓です。

日本の総面積の約4.5%に相当する利根川流域に、総人口の約1/10に相当する約1,200万人もの人々が生活しています。東京都、群馬県、千葉県、茨城県、栃木県、埼玉県、長野県の1都6県にまたがる流域内には211もの市区町村があります。

【利根川の水源】 は、長い間、謎でした。明治27年(1894)に初めて組織的な水源探検が行われ、詳しい地図もない中、決死の覚悟で山奥の調査に入りましたが、水源に達することはできませんでした。その後、大正15年(1926)に第2回水源探検を実施し、水源は刀根岳(大水上山の旧名)と確認しましたが、地図の不完全さもあり、源流部を解明できませんでした。

そして、戦後、昭和29年(1954)になって、第3回利根川水源調査団がようやく利根川の水源は、標高1,834mの大水上山の三角形の雪渓(三角雪田)であることをつきとめました。水源を見つけるのに60年の歳月がかかったわけですが、それというのも、水源を求めて険しい山岳を登っていくと、カモシカも避けて通るといわれるほど急峻で危険な箇所がたくさんあったからです。  〜〜〜引用終わり〜〜〜

源流部の利根川遡行は高度な沢登り技能の所有者だけに許されるウルトラ難コースであり夏でも沢に残る多数のスノーブリッジの崩壊・落下による危険が付きまとうので、沢登り技能を持たない上に怖がり屋のヤマちゃんおやじには確実に実現不可能であった。

しかしアルペンガイド「上信越の山」を読んでいると、新潟県南魚沼市の十字峡から利根川源流部である大水上山および利根川水源碑に沢登り技術無しで登ることができることがわかった(決して楽ではないが・・・)。

とはいえ、新潟県南魚沼市の十字峡といえば山口県から遥か彼方の遠方であり、十字峡から大水上山に至るには、水場が無い標高差1400mの超大傾斜登山道を5リットルの飲料水を含む山小屋泊装備(重さ12〜20kg)の荷物を夏場に担いで登らなければならなかった。

唯一の安心は、『大水上山の近くの丹後山に避難小屋があり、ここに泊れば最悪の場合でも16時までに丹後山に登ることが出来れば良い』 ということであった。。。。

ということは、朝5時に十字峡を出発し丹後山に16時に着くと仮定すれば、『標高差1400mの超大傾斜登りに11時間使っても良い』ということになり、避難小屋泊を前提にすれば苦しいながらも普通のハイカーにとっても実現の可能性が出てくる。

平成二十三年には実行計画を作ったが実行には至らなかった。

今年で69歳になったので、後1、2年経てば厳しい登山は無理になる可能性を否定できない。よって、大水上山登山は今年か来年しかチャンスは無いという気持ちが強まり、

“今年こそは”と、利根川源流到達=大水上山登山を念頭に一日累計標高差1000m超達成を目標として半年間毎週1回登山訓練をしてきた。

7月に入り、利根川水源である大水上山と信濃川・千曲川水源である甲武信ヶ岳を7月14日〜7月21日にかけて一挙に訪れる(余力があれば八ヶ岳、富士山へも挑戦する)詳細実行計画を立て、2週間にわたり補足・修正を重ねてきた。

先ず第一の難関は、水場が無い標高差1400mの超大傾斜登山道を5リットルの飲料水を含む山小屋泊装備(重さ12〜20kg)の荷物を夏場に担いで登らなければならい所だった。

半年間の登山訓練ではせいぜい重さ10kg程度のザックを担いできたので荷物を最大限減らすことを第一に考えた。

避難小屋での食事には炊事用具・燃料・食材を必要としないムスビ・携行食に限定し、コーヒー/ウイスキーなどの嗜好品はゼロとし炊事用具・燃料・食材はザックに入れない事にした(2kg減量)。

重さ1.5kgの寝袋は持参せずに冬用ダウンジャケットと冬用パンツで代用することにした(0.5kg減量)。

缶ビールはどうしても外したくなく350cc*2本を小型缶*2本にした(0.5kg減量)。

しかし命綱の飲料水は真水1.5リットル、スポーツ飲料3リットル合計4.5リットルを、非常食もチョコレート2枚、氷砂糖200gに加えカロリーメイト3箱を追加持参し、万一の野営時に必要となるレスキューシートも新たにザックに入れた。

ダブルストック、定番のレインウエア上下、着替え、ヘッドライト、下痢止め、絆創膏、予備電池、ケータイ、カメラ、ナップザックなどに加え、マムシ対策としてのスパッツ、夏に異常発生し人を襲う虻対策用の防虫網付帽子など安全対策では逆に通常よりも充実させた結果、どうにか12kg程度のザック重量におさまった。

遠隔地への移動手段は航空機、JR、自家用車を比較した結果、行動の自由度の大きさ&費用から自家用車とし、長距離移動には高速道路を積極的に使い休日・深夜割引を極力活用する事とした。

遠距離移動のルートは、パソコンのルートナビを利用して出来るだけ有利なルートを探した。3つの計画案に対し登山計画書、移動コース、宿泊先、概略予算をエクセルシート12頁に纏め一部は自分用として携行し、一部を家内に渡した。

今年7月に魔除けとして登山保険に新たに入ったが、この保険を使わないようにするのが最大の務めだと思う。

車には水、食料、着替え、登山案内書、ルートマップ、仮眠グッズなどを搭載した。
シーズン中には自動販売機でスポーツ飲料などが品切れになるのを想定し、自然水5リットルとスポーツ飲料用パウダーも車に積み込んだ。。。

7月8日の週になって九州各地で集中豪雨による被害が発生し東日本にも拡大するという報道があり、いったん7月14日からの利根川水源、信濃川水源探訪登山を一週間延ばすことにした。

しかし、7月13日になって関東信越地方の天気予報を調べると7月15日の週は比較的好天であることが判り、急遽7月14日昼過ぎに出発することにした!!!!!!



【丹後山、大水上山に登り、利根川水源碑、三角雪田を拝む】

7月14日(土)に自宅を出発し、山陽道、名神、北陸道、関越道を経て、23時30分頃山谷PAに到着した。有難いことに懸念された名神、北陸道での渋滞も無く順調に来られた。

ここで車中で仮眠を試みたが、隣に駐車した車が冷房をかけて仮眠しているが、エンジンの音と振動が気になり一向に寝付けなかった。

比較的空地に移動して仮眠を試みたが、10m以上も離れている大型トラックのエンジン振動が大地を伝わりこれが気になり一向に寝付けないまま過ごしようやく30〜40分の間眠った4時頃山谷PAを出発し六日町ICで関越道を出て、途中予め調べておいたセブンイレブンで朝食、昼食、夕食、翌朝朝食のムスビと、カロリー補給用の饅頭を購入し、『十字峡』、『しゃくなげ湖』という案内板に従い5時40分頃十字峡入口に無事到着した。

最後のトンネルを抜けた駐車スペースは満杯だったのでトンネルを引き返しトンネル手前の駐車スペースに駐車し、登山準備をして再びトンネルを抜け十字峡登山センターへ向かった。

ところが下山後宿泊を予定していた十字峡登山センターへ向かう橋は進入禁止となっていたが7人のパーティが橋を渡り中の岳登山口方面に進んだので進入可能な隙間があったものと思われた。丹後山登山口に通じる林道には柵が設けられ進入禁止の立札があった。

近くにいた地元の人らしき男性に確認すると、丹後山に通じる林道には柵の右端から進入でき丹後山への登山はできるという。

早速登山届に記入しポストに投函して、6時頃十字峡(標高443m)を出発し三国川沿いの林道を歩き始め丹後山登山口を目指した。巨岩を噛む澄み切った流れや切り立った崖から落ちる数条の滝を眺めながら、片や崖上から流出する流れを跨ぎながら林道を進む。

DSCF6392.JPG <三国川と崖から落ちる数条の滝=虹の滝=>

小型で超軽量に見えたザックを担いだ初老の男性はほぼ同時期に出発したが、15分後には早くも500m先を歩いている・・・・・何とも健脚だ。

6時42分ごろ丹後山登山口と書いた案内板に到着した(標高530m)。

スポーツ飲料を口にして、「丹後山〜十字峡」の石碑を右に見送りいよいよ有名な急登りに取り付き無理をしないよう着実に歩を進める。コンクリート製階段を地面に固定しているのは鉄筋であり、仮に転んで鉄筋に腰をぶっつければただではすまないだろうと危険予知した。7時15分頃一合目の鉄砲平に到着しスポーツ飲料を口にして小休止後二合目に向かう。

急登りが相変わらず続き動悸が早まるので立ち止まって休みながら進む。右側の木々の間から桑ノ木山方面の峰々がチラチラ見え隠れするのを見送りながら登り8時5分頃二合目に着いた。

小休止後進むと北五葉松が目立ち出す。二合目から5分も登ると栃の木沢下流まで幾条の白い雪渓を抱いた中ノ岳の威容が左手に姿を現した。その後右手には尖った本谷山も見えた中、一向に止むことに無い急坂を登り8時50分頃三合目に到着。

DSCF6402(1).JPG <本谷山方面>

相当登った感じだが未だようやく三合目だという これから先が思いやられる気持ちが強いが気を取り直し出発し9時40分ごろ四合目に辿り着いた。

ザックを下ろしスポーツ飲料を口にしてしばし疲れを癒す。疲れがたまり風景をカメラに収める頻度が激減した。

草むらから丸々と太ったマムシが三回も顔を出した。たった四合目を過ぎた時点で大きな疲れを感じるのは、10時間余の高速道運転後昨夜30分程度しか睡眠が取れていないのも一因かもしれない。

大きな疲れのもう一つの要因は、キツイ傾斜の登山路が延々と続く中で段差が大きい箇所が多いことにある。

おまけに鎖場や急坂を登るためにストックをザックに収納したまま登ってきたので脚に大きな負担が掛かった可能性も否定できない!!!

目の前には越えるべきコブがとぎれる事無く延々と現れてくるが、一歩一歩登る他はないと気を取り直し半ばやけくそ気味に歩を進め10時30分頃ようやく五合目に到達しザックを下ろし、近くの手ごろな岩にどっかりと腰を下ろした。

昨年夏登った白山でもここ2,3年は途中でどっかり腰を下ろしたことは無かったのだが・・・
一瞬ここから下山することも頭をよぎった!!!

しかし一方では “遠路はるばる10年来の夢を達成するために来たのだ” という気持ちもあり、もう少し歩を進めことにした。

ここからストックを取り出しダブルストックで上半身の力を利用しながらの総力戦で登るスタイルとした。五合目から8分程度登った所からは中の岳がずいぶん大きく見えかなり高度を稼いだ実感がわいてくる。

DSCF6407.JPG <多くの雪渓を抱いた中ノ岳>


掛け声をかけて両手のストックに力を込めて大きな段差を越えたところで、上から2人の元気な男性が下ってきて当方の疲れきった表情を読み取ったのか、『キツイ部分の峠は既に越えていますのでもう少しで楽になりますよ!!!』と声を掛けてくれた。

11時ごろ六合目(標高1480m)に着いた。ジャコの平と呼ばれているとのこと。。。
相変わらず登りが続くが若干キツサが減った感じがする中を進み11時33分頃七合目に到着。

右側も左側にも展望が大きく開け 彼方のシシ岩も望見できた。
ここまで来ればもう登るしかない!!!

シシ岩の手前でストックをザックに収納し、鎖場を慎重に通過するも大した難所ではなく11時55分頃360度大展望の八合目に着いた。

黄色いニッコウキスゲの群落を左に見送り緩やかになった登山道をゆっくり進むと半そでシャツを着た男性が下ってきた。十字峡登山センター前を早朝出発し中の岳に登り、兎岳,大水上山、丹後山を経て十字峡へ下るところだという。

当方とほぼ同時に出発した男性とは小兎岳付近で出会ったといい、3時間も先行しているという。どちらの御仁も健脚なのには だだ感心するばかりであった。。。

12時23分頃九合目の四叉路に着き案内標識に従い左折し平らな笹原に浮かぶ丹後山避難小屋(標高1803m)に12時30分頃若干の小雨がぱらつく中どうにか辿り着いた!!!

ドアを開けるときれいに掃除された避難小屋には誰も居なかった。兎に角休もうとして登山靴を脱ぎかけた所右足に激痛が走った・・・・今まで経験したことの無い強烈な痙攣だ!!!

5分くらい動かずにいると激痛は去った。痙攣は一昨年夏の氷ノ山以来2回目だ・・・よほど足を酷使したようだ。。。

ザックを下ろし昼食を取り出し食べていると、扉が開き大きなザックを背負った一人の中年男性が入ってきたので挨拶を交わした。

この男性は新潟県T市在住の50歳で、今回は明日 大水上山、兎岳、中ノ岳と周り日向山経由で十字峡に下るという。

当方は、大水上山、利根川水源碑、三角雪田を訪ね翌日ピストンで十字峡に下る予定だが痙攣になったので慎重に下ると話した所、彼は練りサロンパスを取り出し使ってみたらと勧めてくれた。

ご好意に甘えて早速練りサロンパスを両足に塗ると、ひんやりとして何となく薬効が出たように感じた。

彼はこの近くの山々に詳しく周辺の山について色々話を聞いていると、今度は避難小屋に常備の天水容器(容量20リットル程度か)から採った天水を煮沸して紅茶を点て振舞ってくれた。

色々お世話になったお礼にと缶ビールを件の男性に勧めると 下戸ですからというので、冷えた小型缶ビール2本を一度に飲み干した。氷結したポカリスエット2本と小型缶ビール2本をプチプチシートに包んで保冷ケース内に同梱し、その保冷ケースをザックインナーに収納しシールしておいたので梱包後丸1日経ってもビールは冷たかった。

痙攣も治まり疲れも和らいだので、足慣らしにポカリスエットとレインウエアだけをナップザックに入れた軽装で笹の生い茂る平原上にある 丹後山(標高1803m)、利根川水源碑(標高1834m)、三角雪田、大水上山(標高1831m)を訪ねることにした。

小雨は止み、太陽が再び顔を出していたのでガスが沸きあがっている群馬県側を除き四囲の山々が望見できたのは幸運であった。

13時40分頃丹後山に着きそのまま進み、14時5分頃『利根川水源碑』に着いた。水源碑の10m北から50〜60m北方にかけて縦走路の4〜10M下方の標高1830 m〜1750 mにわたり雪田が広がっており、実際には3個の三角雪田が北から南へ連続して連なっている形状であった。

DSCF6417(1).JPG 利根川水源碑と三角雪田、背後は中ノ岳、越後駒ヶ岳、小兎岳

最も南側の雪田の下端からは雪渓が遥か彼方の下方に伸びていた。

DSCF6422.JPG  利根川水源の三角雪田

雪田から滴り落ちる一雫を観察し、雪片をかじったことで念願の利根川源流訪問という積年の夢がかなったことになる!!!

DSCF6424.JPG  三角雪田から流れ落ちる最初の一滴


雪田からさらに北上して14時27分ごろ大水上山に到着し今回の山行の目的を遂に果たした。

更に1q北上すれば兎岳(標高1926m)に至るが、痙攣を起こした足への負担を避ける意味で、ここから避難小屋に引き返した。白い花をつけたシャクナゲがあちこちで上品に咲いていた。


15時5分頃避難小屋に着いた。仮眠中の件の男性が目を覚ましたので、大水上山までの様子を伝えた。


再び周囲の山々の話となり、すっかり晴れた屋外に出て2人で山座同定を行った。遥か彼方に頂上付近に雪渓を持つ連山が印象的であった(後で白馬岳付近と判明)。

5時頃夕食を採った時、件の男性が作った味噌汁を貰ったがインスタントにも拘らず大変美味しかった。

小屋に備え付けの毛布2枚を使いダウンジャケットと冬用パンツを着て6時過ぎに眠りについたものの全く静かな環境にもかかわらずうつらうつらしたものの夜明け前に1〜2時間寝ただけであった。

翌日4時30分頃起床し朝食をとり、早朝の景色を眺めた。
DSCF6428(1).JPG <八海山、中ノ岳>

荷物をまとめ室内を掃除した後、せめてのお礼にと件の男性のカメラのシャッター押しの役目を果たし、挨拶を交わし6時頃小屋を出発し下山を開始した。

シシ岩までは景色が名残惜しく何度も周囲を見渡し第一等の風景に見入った。

6時20分ごろシシ岩、6時四5分頃七合目を,7時20分ごろ六合目を、7時35分頃五合目を、8時頃四合目を、8時40分頃三合目を、9時25分頃二合目を、9時50分頃一合目を通過して10時25分頃登山口に着いた。

下山した実感では やはり 『三合目〜登山口』 が最も難関ではないかと思われた。

途中10人の登山者に出会ったが、いずれも男性であった。うち3人とは立ち話を交わし互いに情報交換した。下山はダブルストックを最大限利用し、途中で数回も両足を揉んだのが好奏したのか足の痙攣は起きなかった!!!

登山口から3mほど下を流れる三国川の河原に降りて冷たい水で火照った顔、頭、首筋を数回洗い冷やすと生き返った気分になった。5分間川遊びをして林道を下り11時40分頃十字峡入口駐車場に無事到着した。

見かけたお花たち
DSCF6416.JPG

DSCF6411.JPG

DSCF6426.JPG

多少のトラブルがあったものの大事に至ることなく 念願の大冒険を無事に終えることが出来た、諸々に感謝、感謝、感謝。。。
posted by ヤマおやじ at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月10日

高岳山、三ツヶ峰を歩く & 中学生自殺強要事件を隠匿した大津市の異常

【高岳山、三ツヶ峰を歩く】
7月8日は梅雨の合間の晴れという天気予報があったので足慣らしに行く先を色々考えたが、迷った末に徳佐町の高岳山(標高1040m)と三ツヶ峰(標高970m)を歩くことにした。

高岳山は10年前頃と4年前に合計二回、三ツヶ峰は過去三回登っていたので特に地形図を眺めるなどの準備はせず漫然として8時15分ごろ徳佐町へ向かった。

徳佐町に着くと快晴のはずの天気は曇りで周囲の山々はガスに囲まれており高岳山や三ツヶ峰の姿は全く見えなかった。

“その内晴れるかもしれない”との希望的観測を胸に国道9号を右折して案内板に従い桐ヶ峠林道入口(標高340m)に到着し、9時45分頃高岳山登山口(標高430m)を目指して歩き始めた。

4年前に通った時には荒れていた桐ヶ峠林道は、新しく整備され綺麗になっていた。近年徳佐町が山口市に編入された御利益により林道整備予算が新たに計上された結果かも!?

歩きながらこの林道が渓流から離れて設置されかつ、林道に側溝が設けられているのに気がついた。この林道は良く考えられて作られたものだと直感した。

ヤマちゃんおやじが過去歩いた林道の多くは、渓流に沿って設置されており、側溝も殆どなかったので、路面は洪水や雨水に洗われ抉り取られ荒廃していたからだ。

しかし林道も高度が高くなると渓流に隣接せざるを得ず次第に荒れてきた林道終点の少し先に高岳山登山口の案内板が現れた。ここから桐ヶ峠まで沢を4回横切りジグザクに登ると書いてあった。連日の降雨による増水で今まで見たこともない小滝を眺めながら標高差で455mほど稼ぎ10時35分頃桐ヶ峠着。

桐ヶ峠で左折し高岳山へ向かったが、期待に反し相変わらずガスに囲まれたままだ。904m独標を通過した後 道が下りとなった時点で“間違いでは?”という疑念が生じいったん独標まで引き返した。

しかし迷い込むような分岐はなく道はしっかり踏み固められていたので間違いは無いと思い直し、再度下り坂に向かった。そこから先は予想しなかった結構な登りが続くので一気に疲れが出た。

こんな長くて急な登りがあったっけ???というのが偽らざる感想だった。
やはり事前に地形図を眺めてコースを良く知っておくべきであった!!!

12時30分頃高岳山展望台に到着。
あいかわらずガスに包まれ景色ゼロなので、残る楽しみである冷えたビールを味わいながら飲んだ。

一瞬太陽の光が射したのも束の間で、再びガスが徳佐町の方角から立ち上ってきた。
12時40分頃山頂を出発する。

途中弟見山の姿が見えてきた。時々振り返ると高岳山の特徴的なプロフィールも見えてきた。木々の隙間から徳佐町も見えてきた。13時40分頃桐ヶ峠着。

天候も多少上向いてきたので、片道1時間程度かかるはずの三ツヶ峰まで歩くことにした。しっかり踏まれた登山道が笹の下に埋もれているのは予想通りであったが、進むにつれて笹の背丈が大きくなり顔に達するようになった。

笹の繁茂は想像以上大きく、頼みの綱である赤テープも時々見えなくなってきた!!!
時々振り返り帰り道が判るか否かを確認し、迷い易い場所では新たに赤テープを枝に取り付けた。

笹に進入する場所が不明な場合には、その周囲2mばかり笹を切り払った。14時頃 予想外な笹の成長にウンザリして “やーれやれ !!!” と大声で叫び笹を掻き分け進んでいると、突如正面に男が現れた。

“こんな寂しい笹薮で人に出会うとは”といった男は大いにびっくりした様子だった。
“ヤブ突撃隊というブログに触発され、彼らが辿ったヤブ漕ぎルートを歩いている”と50歳前と思われる防府在住の男は語った。

半そで姿の彼は、仏峠→三ツヶ峰→桐ヶ峠→古江堂→仏峠という周回コースの途中であり、予想外な猛烈な笹藪に多少戸惑っていると語った。

進路途中の笹の繁茂は相当厳しいと彼は言うが、露になった両腕には笹との接触・摩擦による傷跡らしきものが見受けられなかったのは不思議である。度重なるヤブ漕ぎによって皮膚が強靭になってきたのか!?

互いの歩いた山域の話しを競い合う山談義を立ったままで行ったが一向に終わりが来そうにないので、3、40分経過後 やむを得ず山談義を切り上げ互いに安全を祈念して別方向に分かれていった。

予め15時30分を引き返す時間に決めていたが、山談義に予想外の時間を消費したので15時40分になっても目指す三ツヶ峰には到着せず、背丈を越える笹が相変わらず続くので(恐らく残り2,3百m程度=約10分の歩行=であったが)残念ながら引き返した。

背丈もある笹が茂っていても笹が直立している場合では、足で笹の無い空間を探しその方向へ歩を進めれば、見えない杭や切株に躓き足を取られる危険はあるものの、比較的に過大な労力を掛けずとも笹は左右に分かれるので体を進める空間を作ることができる。

しかし笹が道に斜めに覆いかぶさっている場合には、道に覆いかぶさっている笹の集団を手で跳ね上げて体を進める空間を作らないと進むことが出来ないので、多大な労力と時間が必要となる。

4年前にこのコースを60分で通過した時には、笹の背丈も低いうえに道に覆い被さった笹は殆ど無かった。今回は笹の背丈は時に頭上を越え、笹が斜めに道に覆い被さったイヤラシイ場所は10箇所程度もあったので4年前よりも20分以上も余分な時間を要し、二回も転んで16時50分頃桐ヶ峠に到着した。

17時35分頃登山口を通過し18時5分頃駐車場所に着き、19時20分ごろ無事に帰宅した。
累計登り標高差1105m、諸々に感謝。。。。


【中学生自殺強要事件を隠匿した大津市の異常】

いったん隠蔽されたに見えた『大津市の中学校で起きたいじめ死亡事件』の真相が少しずつ漏れ出して話題になっている。

2012/07/07 11:10ウエブ版産経新聞によると、
大津の「いじめ死」で新展開…事実隠す市、沈黙続けた女性市長
という見出しで、以下の記事が報道された。

大津市で昨年10月、いじめに遭っていた市立中学2年の男子生徒=当時(13)=が飛び降り自殺した問題が波紋を広げている。「男子生徒が自殺の練習をさせられていた」。学校側のアンケートに多くの生徒がこう答えたにもかかわらず、市教委がこの事実を公表していなかったことが判明、騒動が再燃したのだ。「伝聞などで事実確認ができなかった」「自殺といじめの因果関係は判断できない」と、腰の引けた対応を繰り返す市教委には全国から抗議が殺到。越直美市長は6日にようやく調査のやり直しを明言したが、後手に回った感は否めない。
 アンケートの中身が報道によって明らかになったのは今月3日。「(自殺した男子生徒が)昼休みに毎日自殺の練習をさせられていた」「(同級生が)自殺のやり方を練習しておくように言っていた」。生徒16人分がいじめの実態についてこう回答していたことが分かったのだ。
 アンケートには「(同級生が)思い切り肺、おなか、顔を殴ったり、跳び蹴りしていた」という、暴行現場を目撃したとする生徒の証言もあった。さらに、「先生も見て見ぬふり」「一度先生は注意したけれどその後は一緒になって笑っていた」と、教諭がいじめを放置していたことを示す回答も14人からあった。
このアンケートは、男子生徒が昨年10月にマンションから飛び降りた直後、学校側が全校生徒859人を対象に実施。約8割から回答があり、市教委は昨年の時点で、男子生徒が同級生にいじめられていた事実を認めていた。
 男子生徒が死んだハチを食べさせられそうになったり、ズボンをずらされたりしたほか、首を絞められたり、整髪料のスプレーをかけられたりした陰惨ないじめの実態も明らかにしていた。
 しかし、今回のアンケートの内容は公表してこなかった。市教委によると、「自殺の練習」との回答はすべて伝聞によるもので、「教諭のいじめ放置」も14人のうち13人が伝聞だったという。その上で非公表とした点について、澤村憲次・市教育長ら市教委幹部は「直接見たわけでなく、話の内容から確実性が低いと考えた。隠したとは思っていない。アンケートで、学校が事実と判断した内容のみ公表した」と釈明。「追加調査する予定はない」としていた。
 しかしその後、市教委が「いじめた側の教育的配慮も考慮」して、いじめ行為をしたとされる複数の同級生に直接、「自殺練習」について確認していなかったことが判明した。
 伝聞なら“裏取りして”確認するのが当たり前。それもせず、多数の生徒の「勇気ある声」を“無視”してしまった。これでは真実追究より、隠蔽に走ったと取られても仕方ないのではないか。
 現にこの問題が発覚して以降は、市教委に「ちゃんと説明してほしい」「きちんと認めたうえで謝罪して」といった抗議が殺到。テレビの全国ニュースでもたびたび取り上げられ、コメンテーターらからも市教委への厳しい非難が聞かれた。
 一方、この問題で沈黙を続けた越市長に対しても批判が出ている。
 今年1月に就任した越市長は、3月に男子生徒が通っていた中学校の卒業式に出席し、自身も小学3年と中学1年時代にいじめを受け、「今までに2回死にたいと思ったことがある」と涙ぐんで告白。「いじめのない社会をつくる責任がある」と力説していた。ところが、「自殺練習」が発覚して市に抗議が殺到し、市教委の姿勢が批判されても、当初は意見を述べたり、問題解決に向けイニシアチブをとることはなかった。
 男子生徒の両親は今年2月、いじめ行為をしたとする同級生3人とその保護者、大津市に約7720万円の損害賠償を求め提訴したが、市は「自殺に過失責任はない」として全面的に争う構えだ。
 5月の第1回口頭弁論で市は「教員のだれがどこで、いかなるいじめを目撃し放置したか具体的指摘がない」と主張した。これについて、男子生徒の父親は「いじめで死にたいという心情を実体験として明らかにした越市長が、答弁でそのこと(いじめと自殺の因果関係)を否定しているのが信じられない。(いじめ被害を告白した)あのスピーチは政治的パフォーマンスだったのか。そうなら息子の死をパフォーマンスに利用したことになり、あまりにむごい」と批判した。
 さらに、「なぜこのようなことが起きたのか、何一つ隠すことなく白日のもとにさらすことが、学校として当然なのではないか」と学校の調査結果の徹底した公表を求めたが、その1カ月余り後、はからずも市教委が重要な事実を公表していなかったことが露呈した。
 7月17日の第2回口頭弁論で両親は「自殺の練習」や教諭のいじめ放置などについても取り上げる意向だ。
 越市長は6日の記者会見で、「調査をやり直すべきだ。有識者の調査委員会を立ち上げる」と述べ、ようやく市として対応に本腰を入れていくことを明言した。「自殺の練習は真実ならいたましい話。市長就任後もっと早く調査に取り組むべきだった」とも話したが、就任から間もなく半年、“ハネムーン期間”も過ぎ、まさにトップとしての実行力が問われている。〜〜〜記事引用終わり〜〜〜


ヤマちゃんおやじは、先週水曜日に越直美大津市長に、担当教師と大津市教育委員会を罷免するように以下の内容の電子メールを送った。

1.学校で死に至るようないじめが継続されたこと自体看過できない。
2.大津市教育委員会はアンケート結果無視して、いじめと自殺は無関係と誤った結論を下し、殺人幇助罪に値する加害者生徒といじめを放任した担当教師を不当にかばい続けた。
3.事件のもみ消しを一貫して進める教育委員会に対し半年間も黙認を続けている大津市長は市長としての職務を放棄している。早速し教育委員会と担当教師に鉄槌を下し解任すべきだ。

越直美大津市長に対して多くの抗議が行われたので、市長は6日の定例会見で、事実関係の調査をやり直すことを決定したと明言、「早急に外部の有識者による調査委員会を立ち上げたい」と述べた。市教委は事故直後、全校生徒対象のアンケートを実施したが、追加調査しないとしていた。

全国からの多数の抗議を受けて、半年間も教育委員会の横暴を黙認していた越直美大津市長(民主党推薦)は、ようやく重たい腰を上げた格好だ。

その後更に詳しい情報が続々ウエブ上で明らかになりつつある。

しかしNKK,民放、朝日新聞などは、大津市中学生自殺事件に関する新たな報道は一切行っていない。

よって、新たな情報を紹介する。

1.死亡した中学生の父親が被害届けを三回出したが大津警察署は3回とも受理しなかった。いじめに積極的に加わった少年の祖父は警察OBであった。

2.いじめの主犯格の少年の父親は事件が起こった中学校のPTA会長であり、母親は大津市地域女性団体連合会会長を務めている。

 大津市地域女性団体連合会は、「人権を守る大津市民の会」に所属し、市民の会は他に滋賀県人権教育大津研究会・部落解放同盟大津市協議会などで構成される。

この母親は被害者を中傷するビラをくばり被害者の両親に「あんたの子供は死んだけど、自分の子供は生きていかなくちゃいけない。どうしてくれるんや!」と逆ギレしたともいわれている。。。

3.悪質ないじめを執拗に続行した少年3人が飛び降り自殺の現場にうろついていた。救急車よりも先に警察が到着した。自殺死とされれた中学生は現場から1キロの赤十字(受け入れOK,検死機能あり)をスル―して22キロ先の病院(検死機能なし)に搬入された。死体は青あざだらけで、死体は仰向けで水平にダイブしており(投げ捨てられた時に起こる現象)、運んだような服の擦れが多数あったという。
死体が搬入された病院には加害者少年の祖父(警察OB)が勤めていた。
この事件は自殺とされているが、加害少年による他殺の線も疑われている。

4.自殺後加害少年達は被害者の自殺を触れ回った。生徒へのアンケートでは(教室に)貼ってあった男子生徒の写真の顔に、死亡後も、いじめをしたとされる生徒が穴を開けたり、落書きをしたりしていた」などの執拗ないじめの様子に関する記述があった。

5.2人被の加害者が被害者に暴力を振っているとき隣に居たが暴力を制止しなかったばかりか、被疑者からのいじめ相談を無視し続けた担任教師は保健体育が担当で、韓国語教育を担当する人権問題のエキスパートだった。

この教師は前職の滋賀大学教育学部附属中学校で体育教師として勤務しており、附属中学2年生の韓国修学旅行のために行われた総合学習(ハングル講座、韓国の中学生との交流)の担当講師を務めた。

この中学校では1、2年で18時間のハングル教育を行い、3年生には韓国旅行するカリキュラムが組まれていた。何故韓国語を義務教育期間に実施しなければならないのか???

 正当な理由は考えられない。
 滋賀大学教育学部附属中学校でも同様な韓国語教育が行われている。おかしい!!!

もう一つのキーワードは,同和団体、人権団体が深く広くかかわっていることだ。。。

警察も市役所も、市教育委員会、事件が発生した中学校、市長も一緒になってこの中学生自殺事件をもみ消しにかかっていた疑いは明白である!!!

滋賀県の県庁所在地である大津市がこのテイラクだ。。。

正直者が馬鹿を見て、犯罪者がのうのうと犯罪者の人権を主張する極めて異常な大津市の実情はしっかり世の中に知られなくてはならない!!!

たとえ反日マスコミがこの忌まわしい事実を隠蔽しようとしても。。。。。
posted by ヤマおやじ at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月02日

民主党分裂騒動 & オスプレイ 報道の怪


あっという間に6月は過ぎ7月に入った。
先月下旬からブログはご無沙汰となっている。

6月20日と6月29日には恒例の公園ボランティア活動を行い、21日には福岡市で入院中の知人をお見舞いした。昼間を食った福岡天神町『ひょうたん鮨』は価格と言い味と言い中々良かった。

最近は、民主党分裂騒動と米軍新型輸送機オスプレイの日本配備報道が過熱気味である。
このような報道は国民から見れば余り価値のない報道に見えるが、反日マスコミが連日執拗に報道するのは何らかの秘めた狙いあるものと思われる。。。。

【民主党分裂騒動】
衆議院採決において消費税増税法案に反対票を投じた小沢グループでは7月2日午後、山岡賢次前国家公安委員長らが2日、国会内で輿石東幹事長に対し衆参議院52名(衆議院議員40名、参議院議員12人計53人)の離党届を提出し民主党を離党し新党結成に踏み切った。

マスコミは民主党分裂はあり得ないような報道をしていたが、元々民主党は政策が異なる烏合の衆が政権獲得のためだけに結集し野合した政党であり、分裂は時間の問題であった。

民主党の政権獲得に大きく貢献した小沢氏ではあったが、前原、岡田、仙谷、管、野田らによる『小沢外し』に遭い、小沢氏としては民主党を離党する大義名分が醸成される機会を待っていたものと思う。

反日マスコミとしては、折角国民を扇動して民主党に政権を握らせ反日政治を軌道に乗せたのに内部分裂されては困るので居ても立っても居られない心境であろう。

野田政権は不人気なので解散総選挙は回避したいであろうが,消費税増税案成立後に不信任案を出され可決される可能性があり,いずれにしても長くはないだろう。

総裁選挙を控える自民党谷垣総裁は解散・総選挙を熱望しているが、自民党が次回総選挙で勝てる要素は見当たらない。

むしろ自民党長老は自民党の不人気を自覚して同じ不人気の民主党との大連立を念頭に入れている感がある。

小沢氏はかって自民党幹事長を務め豪腕で知られ次期自民党総裁即ち首相への最短距離にいた人物であるが、自民党を飛び出し新生党、新進党、自由党を経て民主党に合流し民主党政権誕生に一役買った。

今回の消費税増税反対に際し小沢氏は国民の生活第一といっているが、己の政治的野心を隠すための言いがかりに過ぎないと思う。過去の小沢氏の行動を見れば、小沢氏が自らの政治目的のためなら手段を選ばない単なるマキアベリストであり、確固とした政治理念を持っていないことが明確に判る。

また彼が提唱する国連を中心とした安全保障体制なども子供騙しにすぎない。

いずれにせよ、反日政治推し進め日本解体を図る民主党が分裂して少数与党になり政治の表舞台から姿を消すことが肝要である。

自民党、民主党などの現既存政党では日本の国難には対処不可能であり、新しいタイプの政党の出現が待たれる。

今の橋下大阪市長は、国政レベルでは役不足を感じる。

出来れば、国益と言うものをしっかり理解し諸外国から影響を受けにくい石原東京都知事あたりが次期政権を担当してくれないと日本は確実に滅びる道を進む予感がする。


【米軍新型輸送機オスプレイの沖縄配備報道を読む】
2011年6月6日、米国防総省は2012年後半に、オスプレイMV-22を沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場に配備すると正式に発表した。それを受けて2011年6月13日、北澤俊美防衛大臣は、沖縄県庁で仲井真弘多知事と会談し、米軍普天間飛行場へのMV-22配備を説明した。

その後、
2012年4月11日に米海兵隊のオスプレイMV-22、1機がモロッコの南方沖海上で強襲揚陸艦イオー・ジマ での訓練中、離艦後に墜落し、全搭乗員4名中、2名が死亡し、2名が重症となる7回目の事故が起こった。

2012年6月13日に米空軍の垂直離着陸輸送機オスプレイCV22が、南部フロリダ州で訓練中に墜落事故を起こし、乗員5人が負傷した8回目の事故が起こった。

最近の事故発生情報を受けて沖縄ではオスプレイ配備に反対する運動が強まった。

米国は米軍新型輸送機オスプレイを沖縄米軍基地に配備する前に、岩国基地に搬入し試験飛行後沖縄に配置することを発表した。

森本防衛大臣から説明を受けた福田岩国市長と二井山口県知事は、本年6月13日に発生した事故分析結果と安全対策が不明な状態ではオスプレイ受け入れに反対すると発表した。

産経新聞 7月2日(月)7時55分配信によれば、

 オスプレイ 沖縄知事、配備拒否 防衛相と会談 「事故なら基地閉鎖」 という見出しで

 森本敏防衛相は1日、米政府が垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)への配備を正式通告したことを受け、仲井真弘多(なかいま・ひろかず)知事と県庁で会談した。森本氏はモロッコと米国で相次いだオスプレイ墜落事故の詳細な情報提供を米側に要請する考えを伝え、配備に理解を求めたが、仲井真氏は「安全性に疑問が持たれているものを押し込んでくるなら、断然拒否するしかない」と反発した。

 仲井真氏は会談後、記者団に「もし人口密集地帯で落ちれば、(県民が)全基地の即時閉鎖を求める動きになる」と強く牽制(けんせい)した。だが、仮に在日米軍基地の使用継続に地主が反対した場合でも、駐留軍用地特別措置法に基づき国による強制使用は可能。同法に基づく手続きでは地元自治体の首長の署名が必要だったが、平成11年の同法改正により地元の同意がなくても継続使用が可能になっているためだ。<以下省略>〜〜〜産経新聞記事終わり〜〜〜

ここで気になるのは沖縄県知事仲井真氏による「もし人口密集地帯で落ちれば、(県民が)全基地の即時閉鎖を求める動きになる」と言う発言だ。

これは一見尤もらしい発言らしく見えるが、ただならぬ発言である。

沖縄では、普天間基地に隣接した小学校を安全な他の場所に移動するように提案されたが、子供の安全を無視して市民運動家が小学校移転に強硬に反対したという理不尽な経緯がある。

何故か???
その理由は小学校が安全な場所に移転してしまえば沖縄基地反対運動の強力なネタがなくなり市民運動家たちの基地反対闘争続行に支障をきたすからであった。

マスコミの隠蔽報道によって国民はこの市民運動家たちによる理不尽な小学校移転反対運動を知らないが、地元の沖縄県知事仲井真氏はこれを百も承知でありながら、「沖縄県民が全基地の即時閉鎖を求める動きになる」と国を脅し、県民を扇動している感がある。

仲井真沖縄県知事は、『沖縄から全米軍基地を追い出す』と宣言したようなものだ。沖縄から全米軍基地がなくなれば、誰が困るのか???

観光、米軍基地以外にめぼしい収入源のない沖縄では、米軍基地の存在による収入は沖縄県民の大きな生命線であるはずだ。

沖縄米軍基地がなくなれば最初に困るのは基地に依存する多数の沖縄県民だ。年間数百億円に上る基地協力費等もなくなるのだ。

では何故 仲井真沖縄県知事は米軍基地を目の敵にするのだろうか???

仲井真沖縄県知事応接室には漢詩の超大型屏風が飾ってあり、知事自身の先祖は中国人であることを公言してはばからない。

地域の安寧に意を配るべき知事が日米間の基地に係わる協定を無視してまで沖縄での米軍基地の否定を扇動する真意は、沖縄から米軍を追い出す運動に火をつけることではないか・・・・と推定できる!!!

アジア各国に対し自国の領土拡大を目論む中国にとって、沖縄の米軍基地は目の上のたんこぶであり大きな障害である。沖縄の米軍基地が無くなって本当に喜ぶのは、沖縄県民ではなく中国軍部と仲井真沖縄県知事と左翼政権民主党なのである。

換言すれば、仲井真沖縄県知事は中国の手先となって沖縄から米軍を追い出す役目を果たそうとしているようにも思える。。。。

事実 仲井真沖縄県知事は、民主党政権が出来るまでは普天間基地機能の一部を名護市辺野古へ移転する案を了承していた。しかし中国共産党に親しい民主党が政権を取ると、急に名護市辺野古移転に反対を唱えだしたのである。

日本の安全保障など眼中に無い民主党政権ならば、沖縄から米軍基地を追い出す可能性が出て来たから、仲井真沖縄県知事は自民党政権と交わした辺野古移転を反故にしたものと思える。


米軍ヘリが墜落した沖縄國際大学は、1972年わざわざ普天間基地に超隣接して設置された。
他に安全な場所に立地可能であったにもかかわらず、普天間基地から100mしか離れていない場所に設置された。

本当に学生の安全を願うのであればこんなに基地から100mも離れていない場所に大学を設置するはずがない!!!

基地に隣接して大学を作ればいずれ軍用機事故が大学構内で起きるので、その事故を反基地闘争のネタにするという左翼団体(自称市民運動家)の魂胆があったとしか思えない!!!

戦後の沖縄には、冷戦時代に培われた反米政治闘争(親共産国家闘争)が今でも遍く深く根を下ろしていることに注意しなければならない。

反面戦争や米軍基地をネタに出来るだけ国から金を引き出そうとする動きが終戦直後から存在したことにも要注意である。

米国国務省高官が、沖縄人は“たかりの天才”と言う発言をして一時有名になったが彼は真実を正直に語ったものと思われる。

端的な話が、遺族年金を貰うために村の助役が中心となり旧日本軍の命令で多くの村民が集団自殺したと虚偽の証言をした(実際には軍は集団自殺してはならないと住民を諭したが、軍の命令で集団自殺したことにしなければ遺族年金は貰えないので助役らが中心となり軍の命令で集団自殺したとの虚偽の証言をした)話は50数年間隠し続けられてきたが、数年前に証言者が現れこの虚偽が露見した。詳しくはヤマちゃん日記の記事検索にて,沖縄集団自決で検索されたい。。。。

歴史的に見れば琉球人や韓国人の祖先は、呉の亡国の際 戦いに負けて揚子江下流域から琉球(沖縄)に入り、後に九州南部に移り熊襲を名乗り大和政権に背き討伐を受けるや朝鮮半島に鼠入し、以前からあった新羅の王室に成り代わりその地を支配した新羅王族に成りすました朴、昔、金姓だとする説(鶴峰戌申著、『襲国偽潜考』)がある。

仮説ではあるが、仲井真沖縄県知事の先祖は呉の亡国の際戦いに負けて揚子江下流域から琉球に逃げてきた人達だったのではないだろうか。だからこそ先祖の国である中国のために本気で沖縄から米軍基地を追い出したくなるのであろうか。。。。

『反日活動に熱心な人達は、DNA的にも霊的にも外国に起因する者である』 という、馬野周二氏の卓見に大きく賛同したい!!!!

小沢氏の先祖の墓は日本には無いといわれておる。・・・とすれば、どのように美辞麗句を並べても彼の正体は反日でしかないのではないか。。。

小沢は、日本の皇室は日本古来の出自ではなく古代朝鮮から来たという江上波夫(売国奴)東大教授による嘘学説である騎馬民族征服王朝説を金科玉条として国内だけでなく韓国でも宣伝している事実がある。これだけでも小沢が本当に日本のことを思っているとは決して思われないのである。

小沢の真の狙いは、日本という国を解体して中国や韓国に献上することではないかとも思いたくなる。

話は変わるが、野田ドジョウも韓国には頭が上がらない。野田ドジョウは、日本の国益を大きく損ねても韓国のためになることならば躊躇無く行ってきた。。。

ついでに言えば、この嘘学説の騎馬民族征服王朝説を提唱した江上波夫を“最も敬愛する人”と言ってはばからなかった作家・司馬遼太郎の正体もおのずと反日だと喝破できる。

小説『坂の上の雲』において司馬遼太郎は、日露戦争の激戦地203高地で奮闘し終に難攻不落といわれた旅順要塞を陥落させ勝利を収めた乃木稀典将軍を事実に反して無能者としてこき下ろしている。

『坂の上の雲』では、旅順に来た児玉源太郎が指揮をとって203高地を攻略したと記述したがこのような事実はない。

歩兵第22連隊旗手として旅順攻略戦に従軍していた櫻井忠温は、乃木将軍の指揮について「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った」と後年述べたほどである。乃木将軍の人格は、旅順を攻略する原動力となったと言われている!!!

日露戦争における最激戦であった旅順攻囲戦に勝利した乃木将軍は日露戦争を代表する将軍と評価され、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置もまた賞賛の対象となり、特に、水師営の会見における敗軍の将ステッセル司令官への処遇については、世界的に評価された。

司馬遼太郎は、何故 史実に反して乃木将軍を無能将軍に仕立てたのか???

大正元年(1912年)9月13日、明治天皇大葬が行われた日の午後8時頃乃木将軍は妻・静子とともに自刃して亡くなり殉職した。

反日を心に秘めた司馬遼太郎にとっては「兵が乃木将軍の手に抱かれて死にたいと思った」という逸話や、乃木将軍が世界中から大いに称賛された事実や明治天皇に殉死した事実をどうしても認めたくなったからだろうか???

司馬遼太郎が左翼作家ならば、乃木将軍は絶対に酷評すべき日本人であろう。

理由はどうであれ、司馬遼太郎は歴史を捻じ曲げた単なる左翼作家でしかなかったということになる。

しかし巷間では、司馬遼太郎の名は偉大な作家として定着している!!!!

これも常識の嘘、定説の嘘である。

文化人、学者の中にも反日活動家はうじゃうじゃいる!!!
この反日活動家が立派な人だと言われているのだから困ったことではある!!!



民主党の分裂劇も所詮 反日政治家同士 野田ドジョウ側と小沢一郎側の左翼勢力内の権力争いでしかない!!!

野田ドジョウ側も小沢一郎側も、日本の将来などは全く眼中に無く、あるのはあくなき権力欲だけだ!!!
posted by ヤマおやじ at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする