ヤマちゃんが思ったこと、トレッキング、源流探訪、不可思議現象、反日マスコミがスルーしたニュースなど様々なことについて書き留めます。

ヤマちゃん日記

2010年12月26日

阿弥陀寺から大平山に登る & 阿弥陀寺物語


週末は寒気団が来襲し山海は大荒れと言う天気予報が出たので、雪が降らない12月24日に近くの山に登ることにした。

最近は過去登った山、危険が少ない山を選ぶ傾向にある。
リスクを回避する傾向が出てきたのは、年寄になってしまった証かもしれない!!!

防府市の右田ヶ岳に登るといって家を出たが途中で気が変わり大平山(標高631m)に阿弥陀寺コースから登ることとし、防府市牟礼の阿弥陀寺無料駐車場を目指す。

アジサイ寺として有名ではあるがこの時期では閑散としている阿弥陀寺の山門をくぐり登山コースに入る。

標高差が約540mある阿弥陀寺コースは2年ぶりであり懐かしい気分で渓流沿いの道をひたすら登り駐車場出発後50分で堰堤に到着し、さらに25分をかけて山頂に13時15分頃到着した。

汗をかかないように登ったつもりだがやはりアンダーシャツは汗が滲んでおり寒風を受けて肌寒いので着替えたあと、窪地に移動して寒風を避け暖かいムスビを食した。

紺碧の瀬戸内海を背景にした周南市、防府市、佐波川、阿知須、山口湾、宇部・小野田、関門方面、対岸の国東半島などの景色にしばらく見入った。

大平山からこれほど瀬戸内海がきれいに見えたのは初めてだ。
初冬と言う季節のせいか???
それとも、強風にあおられてできる無数の波頭のせいか???

目を北方に目を転ずれば、十種ヶ峰、弟見山、荕ヶ岳、長野山、馬糞ヶ岳などの西中国山地脊梁部が、その手前には物見ヶ岳、高羽ヶ岳、金峰山、石ヶ岳などが一望できる。

東方には周南工業地帯、岳、烏帽子ヶ岳などが、西方には西・東鳳翻山、男山、龍門岳などが眺められ、東西南北、山と海、山地と市街地などの風景のバランスが非常に良い。

来た道を下り途中で阿弥陀寺に立ち寄るも、前回道を間違えた誤りを再び繰り返してしまった。残念ながら1,2年経過すると記憶が無くなるようだ!!!

若い男女のカップルが仲睦まじくおみくじを引いたりして立ち去るのを待って参拝し200円也の太めの線香2本をあげ家内安全・地球平和を祈った。
DSCF4619.JPG 阿弥陀寺本堂

直径70cm程度もある巨大な線香立て容器(下写真)には、東大寺別院阿弥陀寺と彫られた文字があった。何故東大寺別院なのか???
DSCF4620.JPG


平重衡(平清盛の嫡子)らの攻撃によって治承四年(1180年)に焼失した奈良東大寺大仏殿再建の大勧進職を務めた俊乗房重源上人により、阿弥陀寺は東大寺の周防別所として、文治三年(1187年)に建立された。

また、焼失した東大寺を再建するための木材の切り出しや布教活動の拠点として建てられた。(建立用地を)重源が自ら荒地を切り開いたと言われる。

国宝に指定されている「鉄宝塔」の銘によると、建立当時の寺の範囲は現阿弥陀寺の南に広がる平地の多くをしめていた。

その広い境内の中には本堂や仁王門・湯屋、浄土堂をはじめ、経堂、鐘楼、食堂(じきどう)および実相坊、成就坊など多くの支院僧坊があったが、1484年の火事によって、多くのものがなくなった。

その後大内氏が再建したといわれるが、現在は本堂、経堂、鐘楼、山門(仁王門)、石風呂が残っている。境内には80種約4000本のあじさいが植えられ、あじさい寺としても有名。


東大寺再建当時には重源上人、周防国、防府(周国の国を略して防府)阿弥陀寺、佐波川、山口市徳地などが深くかかわりあっている。

ヤマちゃんおやじは上記について多少は知っているが、以下に格好な情報源をご紹介しよう。

61歳から75歳まで東大寺再建の大勧進を見事に務めた重源と東大寺再建の苦闘の模様は
大勧進・重源の足跡
http://www.i-unic.com/web-content/boucho/chogen/chogen_01.html
に詳しい。


大仏殿の柱材ともなると、長さ30メートル、直径1.7メートルもの巨材であり、その重量は1本が概ね50トンに達するであろう。この巨材を百数十本も人力で伐採し、運搬するのは超難事業であっただろう。

現在においてもこの1本の重量が概ね50トンに達する木材を伐採し運搬するのは、大型重機やトレーラーを使用したとしても大変な作業であろう。


ヤマちゃんおやじは、佐波川沿いにある「関水」や「僧取淵」は山口市徳地で実際に見たことがあり、その分この物語を身近に感じることができた。

周防国が東大寺造営料国ときまったのは、もともと周防国が後白河法皇の分国であったと言う理由の他に、@巨木を搬出できるほどの佐波川があり、A長さ30メートル、直径1.7メートルもの巨木が佐波川上流地域に多数存在したという2つの条件を満たしたからかもしれない・・・


今回阿弥陀寺コースから大平山に登った縁で、阿弥陀寺に関する情報をインターネット・書籍などで調べる事となり、東大寺再建の大勧進という超大役を見事はたした大勧進・重源上人の事跡を知る事が出来たのは大きな収穫であった。


61歳と言う高齢にもかかわらず、東大寺再建という誰もが尻込みした超難事業の最高責任者就任に手を上げかつ、苦節14年後に見事達成させた重源上人の偉大さには改めて感心させられた。。。。。。


昔の日本には本当の偉人がいたのだな〜と実感できた!!!
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2010年12月19日

雪の荕ヶ岳;中国漁船が韓国艦に衝突・沈没、取締官に暴行に思う


12月18日(土)に周南市鹿野町荕ヶ岳(標高1004m)へ登った。
16日には平野部でも雪が降ったので、雪の荕ヶ岳に行きたくなったからだ。

鹿野町中心部では雪のカケラも無かったが315号線を北上するにつれて屋根に残った雪が目立つようになった。

今年1月には雪道を山奥の登山口駐車場まで車で侵入を試みたが、駐車場直前の凍結した氷のコブでタイヤがスリップし前進不可となりやむを得ず狭い雪道をおよそ1km後進する羽目になったことを思い出し、今回は大事をとって駐車場から2km手前に駐車して後は歩いて登った。

駐車場には4WDなどが6台があり、ちょうど4WDから出てきた男から“荕ヶ岳へ(普通の装備で)登れるだろうか”と聞かれたので、“今年1月の状況からすれば先行者がいるので恐らく通常の登山靴で頂上までいけるだろう、万一無理であれば引き返せばよい”と答えた。


5合目付近でデジカメの電池交換を終えた所で、先ほど質問した男が追いついてきたので一緒に山を話題に話しながら登った。

その男性は地元鹿野町出身で最近になり山登りをするようになったとのこと。登山道の積雪は少なく歩行にはそれほど問題が無く登山口から約1時間で12時30分頃山頂に到着した。

予想通り周囲の1000m級の山々は薄いながらもさすがに白化粧しており、北方には安蔵寺山が真白に見えて今シーズン初の雪山の雰囲気を味わった。

DSCF4593.JPG 真白な安蔵寺山方面を望む

山頂はあまり風が吹かないのでアンダーシャツを着替えて、保温対策のおかげで暖かさを残した弁当と珈琲を山の話をしながら採った。

先行した荕ヶ岳愛好会(仮称)のメンバー5人が避難小屋から出てきたので挨拶する。

“もうこの雪で熊は冬眠でしょうね〜”と言うと、“この辺では雪があまり深くないので熊は冬眠しない上に雌熊は子供を孕んでいるので要注意だ”と大ベテラン氏から答えがあった。

冬には熊は当然冬眠するものだと確信していたヤマちゃんおやじは大いに驚き、このあたりではやはり熊鈴を手放せないと痛感した。

今年は荕ヶ岳に7回登ったと当方が話すと、“わしゃ―今回で今年98回目だ、明日も登るので12月23日で100回記念だ”と累計で800回以上荕ヶ岳に登ったという74歳の大ベテラン氏が答えた!!!!

1年間で100回登山とは週2回のペースだ!!!!
物事これだけ徹底できる事に対し敬意を禁じえない。

滑りやすい下り道を慎重に歩き駐車場には13時30分頃到着した。まだ帰るには早いし、腹の周りには分厚い脂肪も残っていたので、近くの金峰山(標高790m)に登ることにした。

14時頃金峰山駐車場に到着し、熊鈴2個をつけ最低限の所持品だけの携行しての軽装で登りはじめ15時頃山頂に到着。

山頂は西日を浴びて風は無風に近いので、上半身裸となり汗をぬぐい試みに乾布摩擦をしてみた。

山頂の立木が切り払われ北側の眺めが一段と良くなり360度のパノラマが展開していた。先ほど2.5時間前まで山頂にいた荕ヶ岳の尖鋒が鹿野町の奥に遠く見え感慨深いものがある。

山頂の立木が切り払われた金峰山からの眺望は、荕ヶ岳、真田ヶ岳、物見ヶ岳からの眺望に引けを取らない第一級クラスの感じがした。

40分で下山し、周南市の知人宅で天然水を頂き無事帰宅した。感謝、感謝、感謝!!!



閑話休題

12月19日にニュースで、“中国漁船が韓国艦に衝突・沈没、取締官に暴行”が報道された。

Biglobeニュース/読売オンライン
http://news.biglobe.ne.jp/international/1218/ym_101218_6144294063.htmlによると、

【ソウル=仲川高志】韓国海洋警察庁によると、18日、黄海にある韓国・於青島(オチョンド)沖の排他的経済水域(EEZ)で、同庁警備艦(3000トン)の海洋警察官4人が違法操業していた中国漁船(63トン)に停船命令を出し、小型ボートで漁船に乗り込もうとしたところ、漁船員から突然、鉄パイプで殴られるなどの暴行を受け、4人が右腕骨折などの重軽傷を負った。

 漁船は警備艦に突っ込んだ後、沈没した。警備艦と周囲の中国漁船が沈没した船の漁船員10人中、8人を救助したが、1人が死亡、1人が行方不明となり、同庁が捜索を行った。周辺には当時、約50隻の中国漁船が操業していた。

 同庁によると、黄海で中韓両国のEEZは重なっており、完全に画定していないが、現場海域は漁業協定などにより、韓国側のEEZとすることで合意済み。
 韓国外交通商省は18日、在韓中国大使館に対し、電話で「人命が失われる結果となったのを遺憾に思う」と伝えた。中国側は、「行方不明者の捜索などの面で協力していく」と応じた。抗議はなかったという。
          ◇
 菅首相は18日夜、前原外相に衝突事件に関する情報収集を指示した。
とあった。〜記事引用終わり〜

不思議に思ったのは、先の尖閣諸島と同じ種類の支邦漁船による狼藉(経済水域進入、監視船への漁船の体当たり)で支邦人1人が死亡したにもかかわらず、支邦共産党政府は韓国政府に抗議もせず高圧的態度は微塵も見せなかった。

日本の尖閣諸島における支邦漁船による狼藉事件では、支邦共産党政府は日本政府を強烈に批判し、支邦に滞在していた日本人4人を拘束してまで支邦人船長を即時釈放するように強圧的態度に出た。


当時管(無能・無策)首相は、早期釈放決定の前夜“何とかせよ”とイラついて米国で開催されるG7へ出発した。仙石官房長官は翌日柳田法務大臣(当時)を呼びつけ指揮権発動をちらつかせ支邦人船長の早期釈放を強要した。柳田(前)法務大臣は大林検事総長を呼び支邦人船長の早期釈放を丸投げした。大林検事総長は、他の検察幹部全てが反対する中で支邦人船長の早期釈放を決定し、那覇地方検察庁に早期釈放を発表させた。

仙石官房長官は、那覇地方検察庁による支邦人船長の早期釈放発表の数時間前に中国公使に早期釈放を電話で伝えていたことが後日(1週間前)判明した。

結論としては、管のイラツキを受けて仙石官房長官が事実上の指揮権発動を行い支邦人船長の早期釈放を強制したことになる。

・・・が仙石官房長官は、あくまで検察による独自判断だと記者会見で発言し自らの事実上の指揮権発動を隠蔽した所が小ざかしい!!!

また、支邦人漁船による故意の巡視艇衝突の映像公開に関しては、前原外務大臣は公開を主張したが、仙石は公開に反対し、管もまた公開に反対したた事が最近になって判明した。
ここでも仙石・管は日本の国益よりも支邦の国益を優先させた!!!

海上保安庁の海上保安官が衝突映像を流出させたのは、管・仙石が反対して公開しなかった衝突映像に対して国民が知る権利を代表して行使したもので英雄的行為である。

警視庁はこの保安官を犯罪者として送検するらしいが・・・・

犯人として断罪されるべきは、国民の目から支邦人漁船の犯罪を隠蔽した仙石と管であろう!!!

管は支持率が1%になっても首相を辞めないと明言した。
これは共産主義者に共通する傲慢不遜な態度である!!!

このように仙石官房長官が取った態度は、支邦共産党政府の同調者としての行動そのものである。管も日本国民の財産、領土、生命を預かる国政のトップとしての認識・役割がゼロである事が白日の下に明確となった。


仙石由人官房長官のホームページ政治理念の最初には、“地球市民として世界の人と仲良くしよう”と明記してある。

一見何の問題も無い理想的な内容に思えるが、実際には日本国・日本国民のためという意識はゼロであり、何の実体の無い“地球市民”と言う空虚な言葉が前面に出ているのが大問題である。

米・英・仏・ロ・中による常任理事国が拒否権を持つ国連は、安全保障問題ではなんら問題解決力を持たない現在においては、国・国益・国民が国際政治の基本単位であり、地球市民なる存在は実在しない。

したがって今回の支邦による日本の固有の領土侵犯に際しては、本来の国政担当者としては毅然たる態度を示し国家主権を発露させるべきであった。


しかし管や仙石は、支邦によるいわれの無い恫喝に恐れおののき、本来拘留して罪を取り調べすべき無法者船長を何も尋問しないで早期釈放しその無能ぶりを世界中に示した。


仙石由人は実在しない“地球市民”を表記する事によって、日本国及び日本国民の存在を否定しているのである!!!

管も国歌斉唱を拒否するアナーキスト(無政府主義者)として有名である。

片山総務大臣(前鳥取県知事)も国旗に敬意を示さない。片山は、日本海を朝鮮が呼称する東海と呼んだ。

世界広しといえども、政府トップ・高官が自国の国旗、国歌に敬意を払わない国は紛争係争中の国家を除けば日本以外に存在しない!!!

鳩山前首相は、“日本列島は日本人だけのものではない”と公言した。

民主党にはましな政治家も若干存在するが、鳩山、管、仙石など主流派は日本国益、日本国民のためという概念自体が欠落しており、東アジア共栄圏と称してはいるものの支邦や北朝鮮のために政治を行う姿勢が底流に見受けられる。

自民党にも、反日運動に狂奔した江沢民の銅像を地元和歌山に立てようとしたオオバカ者が党三役の一角を務め、在留外国人への参政権付与を熱望した官房長官もいた。

自民党中曽根元首相は、歴代首相と官房長官は靖国神社に参拝しない国恥的密約を元駐日支邦大使との間で交わしたが、それでも大勲位を授かっている。
もちろん自民党にも稲田朋美のような愛国政治家・保守本流政治家もいる。


“有り難いものはそれが無くなってから初めて有難みが解る”と言われる。

“治にあって乱を忘れず”と言う格言もある。

戦後60数余年間日本は戦争を知らないで平和に過ごしビジネス一本槍できたので、安全保障面では何もしないでも平和が続くものと思い込み、世界平和の実態を誤解しているのかもしれない。

残念ではあるが現在の一時的平和は、拮抗する軍事力のバランスで成り立っている事を認識しなければならない。


韓国大統領/政府は北朝鮮から自国領に砲撃を受けると直ちに反撃し、米最新鋭空母ジョージ・ワシントンを中核とする米軍と韓国軍との共同軍事演習を実施し侵略に即応する体勢を支邦の反対を無視して取った。

支邦の恫喝におびえた軟弱アナーキスト管・仙石率いる日本政府と、自国の安全・国益を守るべく直ちに反撃を加え更なる侵略を防止する措置を取った韓国政府との差は歴然としている。

支邦は韓国政府が取った毅然たる態度を見て、無理難題を韓国に吹っかけるのを思い止まったものと思う。

昔から支邦人は理由の如何を問わず弱いものは徹底的に痛めつけるが、自分よりも強いもの/武力あるものに対しては卑屈なほど低姿勢をとることが知られている。


支邦にとっても、北朝鮮にとっても、ロシアにとっても、欧米諸国からみても、今の日本は借りてきた猫のようなものであるに違いない。

それほど日本の政治・政治家は世界最低クラスに落ちぶれている。

民主党を持ち上げ、支邦の悪い所は一切報道しない売国奴マスコミも良くない。

自民党もたいした政治をやってこなかった。

何が日本政治を世界最低クラスにしたのか????

いろいろ原因らしきものをあげつらうことはできるであろう。

今は一応民主主義であり、国民に等しく選挙権がある。
有権者に責任が全く無いとはいえない。

本物政治家と偽者政治家を見抜く眼力は有権者にもっとほしいとも思う。


しかし戦後の愚民化教育を受けてきただけの有権者には、それらを見抜く眼力は育っていない。

ではどうすべきか、世界最低クラスに落ちぶれた日本政治・政治家をレベルアップする秘策は無いのか!!!

NHK、民放、朝日新聞などの売国奴マスコミの報道を信じない事。

世界を動かしてきた実態への知識(学校で習う歴史とはまったく別のランクの歴史)の獲得。などなど・・・・・・

過去の世界歴史において、商売・ビジネスを政治の最優先課題とし安全保障をおろそかにした国・民族は全て滅びている(商人国家;カルタゴ、フェニキアなどの滅亡)。

仮に日本の財界が支邦でのビジネスを重視して支邦のご機嫌を損なわないように日本の政治家・政府に強制したのであれば、それが日本国を滅ぼす主因になる。


江戸時代には士農工商という歴然とした序列があった。

明治維新は誰が主に行ったのか?
商人か?-NO。農民も加勢したが主役は士(さむらい、下級武士)であった。

少なくとも今の日本では、安全保障・国益に無関心な管・仙石政権を舞台から引き摺り下ろし、安全保障・国益を重視する政権を発足させるのが焦眉の課題だと痛感する。

また経団連、経済同友会などの財界(商売人)が国の政治・外交に口出しさせない仕組みも必要だと痛感する。


一方、

民間よりも多額の報酬を取る公務員の減給は、選挙がある限りどの政党も手が出せない!!!

やはり市民、有権者が署名活動などの直接行動を起こす事も必要になるであろう。
posted by ヤマおやじ at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月12日

徳佐町・十種ヶ峰に登り、嘉年・勝山城跡を訪ねる


12月11日((土)は、最近登った高羽ヶ岳〜物見ヶ岳間の最低鞍部に至る林道への近道を探すつもりであった。

その理由は最新の1/25000デジタル地図において、阿東町生雲東分から始まる大規模林道を遡り徳地町との境界を1.5km程度過ぎた大曲辺りから例の最低鞍部に至る林道に通じる近道(点線)が載っており、先々週車で見た限り近道入口らしきものが見えたからだ。

ところが、12月11日に車から降りて近道入口らしき道を進んでいくと、小さな貯水池があり道はそこで終わっていたのだ!!!

せっかくだから進入口を探すも見えるのは藪ばかり!!!

恐らく笹薮に埋もれた古道があるはずであるが、藪を切り開き進む気は微塵も無く早々に退散することとした。

地図に無い所に立派な舗装道路が現れたり、地図に記載されている道が荒廃して通過できないという“地図は万全ではない”ケースは今まで沢山経験している。それなのに〜

しかし今回は、地図に道の記載があった上に近道入口らしきものを先々週実際に見たために強い先入観を形成したせいか仮説を真実と信じ込み、近道を通過できると物と勝手に思い込んでいた(またもや期待と現実を混同してしまった!!!)。

“先々週に見た近道入口らしき道をさらに進んで確認していればよかったのに”と思ったが後の祭りである。最近このような反省事項が増えた気がするが・・・・・・



天候は曇りで風が強いがメタボ対策上次の行き先を考え、徳佐町の十種ヶ峰(標高989m)に登ることにした。

10時30分頃徳佐スキー場隣の登山口を出発し、一部雪を残した谷筋を詰めて11時30分頃の権現社鳥居前に到着。

山頂では北風が強いと予想して、風が吹かない鳥居の石段に座り昼食を採った。
今回も新しい保温対策をチャレンジしてみた。

結果は先週と異なり、コンビニで温めてもらったムスビは人肌並みの温度を保ち瞬間的ながらかすかに湯気が出たほどであった・・・・まずまずOK!!!

コンビニで温めてもらったムスビと温かい缶コーヒーをビニール袋に納めビニール袋の上下に携帯懐炉を貼り付けその上からプチプチシートで2重に包み、アルミ箔を内張りした弁当ケース(新調)に収めたものをザックのインナーに入れ密封した。

先週と異なったものは、温かい缶コーヒーを同梱した点とアルミ箔を内張りした弁当ケース(新調)に入れた点であった。

これからの冬場には、できれば熱いスープなどがあれば最高であろう!!!

北風が強いと思われる山頂に備え、mont・bellのストームクルーザジャケットを着込む。

若い男女のカップルが元気に山頂に向かって行き、冬装束で完全武装した年配のおじさんが下ってきたので挨拶を交わす。


権現社鳥居は一昨年春に新しく建立されたもので、由来板には重病に陥ったわが子を救うために毎日麓から十種ヶ峰山頂付近(山頂より約15m下)の権現社にお参りして御水を頂いて帰り子供に飲ませて完治させたと記してある。

このけなげな母の毎日の権現社参拝による御水によって重病から奇跡的に一命を取り留め立派に成長した子供(埼玉県春日部市在住)が感謝の念を込めて権現社の鳥居を新たに建立したとのこと。
DSCF4574.JPG 権現社の鳥居 DSCF4576.JPG 権現社

麓の人家から山頂までは標高差でおよそ500mはあろうが、我が子のためとはいえこれを雨の日も風の日も雪の日も毎日登り降りるのは大変なものだ!!!

この母の思念・実行力には大いに感服・敬服せざるを得ない!!!


滑りやすい急傾斜を避けるためと、権現社にお参りするために権現社コースから登った。
山頂は風上では強風が吹くが、風下では殆ど無風〜弱風であったのは以外であった。


わずかに薄日が差す山頂で缶コーヒーを飲みながら、最近興味が増した山城跡を求めて山頂が平らになった山を探し、津和野方面に2,3のそれらしき山を見つけた。


下山はスキー場のゲレンデを下り2時ごろ駐車場についた。もう一山登れない事は無いが曇天で日暮れが早まるので山登りは諦めて、5箇所程度の城跡がある徳佐町・嘉年方面へ車で向かった。


峠を越え萩市まで入るも城跡の案内板は見つからないので半ば諦めて徳佐方面へ帰る途中気をつけてみると、市場地区の国道315号線の右手に勝山城登山口という小さな案内板を見つけ駐車し歩いて登る事にした。

DSCF4591.JPG 勝山城登山口 DSCF4589.JPG 立札

ここでも赤いテープに従い狭い道を500〜600m進むと駐車スペースがあり、右手の小道にも赤いテープが貼ってある。さらに300m程度進むと勝山城登山口という立札があり左手に進むとここから急な上りの登山道となる。

ここからは本当に急な登りが標高差100m上の山頂まで続くので有難い事にはロープが張られていた。ロープにつかまりながら登ること自体非常に厳しい。

ヤマちゃんおやじは身一つで登るだけでもヒーヒーだが、昔の人は重い鎧兜を着用し武器を携えてこの急な登り坂を登り城を攻撃したのかと思うと想像を絶する・・・・

9合目付近にいったん平坦な5m×10 m程度の場所となり、右側2mの高さに真正面に十種ヶ峰が見える5m×10 mの平坦な場所があり、さらに左に標高で10m程度登ると山頂の平坦な場所に着いた。

この平坦な場所は目測でおよそ幅12m長さ50m程度の広さで、中央部が少し高い位置にあり、中央部の手前には直径1m程度の窪地があった・・・・何であろうか、井戸を埋めた跡か????

DSCF4583.JPG 山頂の平坦部

城の由来を示す案内板の存在をかすかに期待していたが何も無かった。まあ道しるべとロープがあっただけでも大変ありがたい!!!

北西側に若干の尾根続きがあるものの、どの方向からでも比高60〜100m程度の急しゅんな地形は山城にはうってつけの条件を備えていると感ぜられた。


嘉年・勝山城は波多野氏の居城であり、周囲に和田山城、陶殿陣山城跡、岩枯山城跡、茶臼山城跡があることは最近の調べで知っていた。


帰って夕食もそこそこに済ませ早速 嘉年・勝山城についてインターネットで調べた。
あまり有名な城ではない割には予想外の記載が見られた。

その一端を紹介すると・・・・

南北朝時代にはすでに嘉年・勝山城は存在していた。石見(島根県西部)の北朝方有力国人であった益田氏の家臣虫追政国の居住を思わせる1337年(建武4年)の記述がある。

応仁の乱時代では、東軍の首領であった細川勝元に唆されて豊前代官大内道頓(大内一族)が1470年に起こした西軍主力大内政弘に対する反乱において、石見の豪族吉見信頼(吉見氏第8代当主)は大内道頓に味方し嘉年・勝山城を攻めたが大内氏家老職の陶弘護に敗れ、吉見信頼は長野荘(現益田市内)を仇敵益田貞兼に奪われ、陶弘護に吉賀開発領を奪われたので領地の大半を失った。

その後1475年に吉見信頼は陶方の徳佐城を攻撃するもまたしても陶弘護の援軍に敗退した。
1475年大内政弘が京都から山口に帰国すると吉見信頼は前非を詫びて大内氏への臣従を誓った。

吉見氏9代頼興は、吉見家の信頼回復のため、大内義興に従って殆どの合戦に参加しています。その甲斐あってか、応仁の乱時に失った吉賀地方を再び取り戻すことが出来ました。


天文20年(1551)9月1日、吉見氏の主君大内義隆は陶隆房(後の晴賢)の謀反により、長門国深川の大寧寺において自刃しました。

義隆の姉大宮姫を娶っていた吉見氏11代正頼は義隆とは義兄弟の間柄であり、天文22年10月10日、正頼は三本松城及び嘉年勝山城、下瀬山城などに拠って陶晴賢討伐の兵を挙げた。

天文23(1554)年3月2日、いよいよ陶晴賢は2万8千の兵をもって吉見氏討伐に乗り出し、長年の宿敵益田氏もこれに呼応して吉見氏を背後から衝きました、これを津和野合戦と呼ぶ。

吉見正頼は津和野城に籠り嘉年勝山城には吉見家臣である城主波多野滋信が籠った。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~onmyousansaku/ikusa-katuyama.htm
http://www.yoshimi-rekishi.or.tv/iwami1.htm
によると、

同年3月2日の嘉年勝山城攻防の陣容は、攻撃軍では、南方の陶殿陣山城に陶晴賢本陣3000人、西方の岩枯山城に糟屋氏300人、北方の茶臼山城に弘中隆兼500人、同じく北方に町野隆治200人、北東の和田城に三浦房清500人合計4500人。

守備軍は、嘉年勝山城に波多野滋信、吉見範弘、波多野秀信、下瀬頼定、波多野秀重、田中次郎兵衛300人、町野軍の正面に吉賀頼定100人で合計400人。

吉見隆頼(10代当主)の娘を妻に持つ城主波多野滋信は、津和野合戦では真っ先に集中砲火を食らい、味方に10倍する大軍に攻められ陶軍の先方隊を弓でなぎ倒し吉見範弘と共に弘中隆兼の軍に攻撃し防衛するも家臣・田中次郎兵衛の内応によって敗北。
息子の詳細を最後まで気に掛かりながらも城へ放火し磁信は腹を十文字に切り裂き首を切りつけ炎の中へ付して自害した。3月3日に嘉年勝山城は落城した。

吉見範弘(9代当主頼興の9男)の娘を妻に持つ波多野秀信は、津和野合戦では陶軍の進軍を留める為に父・滋信と共に守っていた武将。嘉年勝山城の合戦では断腸の覚悟で手勢、約200人を率い陶晴賢軍に切り込み178人を討ち取った。なお秀信は生き残るも波多野軍約200人の兵はほぼ殲滅しこの地に千人塚なる石塚が残っている。
津和野合戦の出鼻を挫く猛戦に正頼は感激し感状を与えた。まさに背水の陣で戦ったのである。敗走した秀信は下瀬頼定と共に吉見氏居城の津和野三本松城へ入城する。その後1556年3月15日には吉見正頼(11代当主)が嘉年勝山城を奪回し、波多野秀信は城主として治まる。

4月、三本松城は大軍に包囲され、以後5ヶ月がかりの籠城戦が展開されました。8月2日、遂に力尽きた正頼は、嫡子広頼を人質とすることを条件に、晴賢と和議を結びました。


弘治元年(1555)10月、毛利元就は厳島の合戦で陶晴賢を破り、中国制覇に乗り出した。翌1556年、吉見正頼は人質となっていた広頼を奪還して再び挙兵し、毛利軍に呼応して長門阿武郡に侵攻した。弘治3年4月3日、大内義長は長府の長福寺において自刃し、ここに大内氏は滅びた。

大内氏の遺領長門・周防を制覇した毛利元就はその論功行賞において、吉見正頼の軍功を第一とし、攻略した阿武郡全郡と佐波郡・厚東郡内の地を宛行いました。


今回嘉年・勝山城を調べたことで、今まで不明であった和田山城、陶殿陣山城跡、岩枯山城跡、茶臼山城跡の由来と、関連する一連の歴史事情ももわかったことになる。


今は山口市徳佐町の片田舎に眠るかっての嘉年・勝山城は、同郷の仇敵同士の益田氏と吉見氏との石見国内での争い、陶氏と吉見氏との隣国間で境界を接する因縁深い勢力争いの真っ只中に位置し、時代背景的にも大内氏から毛利氏へと変わる大大名間の歴史転換の狭間にあった為か、嘉年・勝山城城主の帰趨は変転極まりなかった無常を感じる。

万物流転!!!
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2010年12月04日

山口市仁保岩倉川から物見ヶ岳へ


先週長門峡を過ぎて国道9号線から延びる大規模林道から高羽ヶ岳〜物見ヶ岳を縦走したが、物見ヶ岳から南東方向に山口市仁保岩倉地区が見えた。

以前インターネットで岩倉川を遡り物見ヶ岳へ登った記録を見たので、快晴となった12月4日に挑戦することにした。

ただし、岩倉川を遡り物見ヶ岳へ登るコースは難度D(非常に厳しい)と書いてあったので、とりあえず車巻の滝まで行ければよしとして出発した。

国道9号線の宮野を過ぎた仁保入口交差点を右折して国道376号へ入り、井開田交差点を左折して県道柿木山口線を仁保川に沿って上る。

徳地・八坂へ向かう県道334号が分岐する約200m手前の道路わきに駐車し、橋の手前で左折して岩倉川沿いの林道を歩いて進み三叉路を左に進み小岩倉川に沿って約1km程度すすむと道の右側に小さな登山口の標識がある。

標識には、物見ヶ岳まで登り2時間、下り1時間20分と書いてある。

古びたコンクリートの橋を渡りいよいよ道は荒れ加減となり、テープが頼りの綱になってくる。


登山口から40分程度進んだ植林地帯の上り坂の途中で “名勝車巻の滝”という看板が突如現れた。

名勝にしては、相当辺鄙な山奥の場所である。


先ず本日の第一目標に到達したので、道を左にとり14,5m進むと2段滝が木々の合間から見えた。

記録によれば上段の滝が10mほぼ垂直に滝壺に落ち、さらに下段の滝が10m斜めに落ちて水量がかなりあるのでかなりの迫力があった。

木の枝が邪魔になるので、さらに下に5,6m下り写真を撮った。
DSCF4543.JPG DSCF4546(1).JPG 車巻の滝

滝を右から巻いて延びる細い登山道には概ね10mごとにテープがあるのでさらに登ることにした。

沢に沿った荒れた道をどんどん登って行く。

道は荒れてはいるが、急ごしらえの道ではなくかなり昔から多くの人が通過した感触があった。

さらに進み5m程度の第2の滝が現われた所で小休止し、水を補給した。道の一部は沢の増水で洗われたり、土砂崩れで埋まったりしているがテープがしっかりつけてあるので見落とさない限りどうにか登れる。
DSCF4547.JPG 第2の滝

高度を稼いでいく割には、沢の水はかなりの水量を保っているのが不思議に思えた。

やがて落差7,8mの第3の滝が現れたので、登山道からはずれ木の枝を掴みながら急傾斜を沢まで降りて記念として写真を撮った。

DSCF4548.JPG 第3の滝

傾斜が緩んだ所で沢を右岸側(上流に向かって左側)に渡り、本谷と思われる谷から左の谷に入る。ここからの道はさらに荒れて踏み跡になってくるが、テープに従って概ね細い沢に沿って登る。

右手には空が見え出しかなり高度を稼いだ事がわかり、沢を詰めて急坂を息を切らせながら木をつかみ尾根筋に出たのは、登山口からおよそ1時間30過ぎた11時10分頃だった。

ここで小休止し水分を補給し、シャツを脱いで汗をぬぐった。帰り道に間違わないように分岐点を確認すると、周囲にはテープが派手に張ってあったので安心して頂上へ向かった。

天狗岩に向かう尾根道はまたしても急登の連続だ。最後の急登の傾斜は50度かそれ以上あった感があり、木をつかまない限り登れそうもなかった。

11時40分過ぎに先週登った物見ヶ岳・天狗岩にようやく到着した。登山口の標識に上り2時間と書いてあったがほぼ同じ時間で登ったことになる。

今回は先週と異なり、一昨日雨が降ったせいか遠くの景色が非常によく見えた。
先週見えなかった長野山、荒田山、金峰山、桂木山や周防灘などがはっきり見えたので、一層感動した。

天候は快晴無風なので、誰もいないのを幸い、上半身裸になり汗にぬれたシャツを乾かし、体の汗をぬぐった。


冬を迎え山上で如何に暖かい弁当が食べられるかが当面のテーマであり、いろいろ工夫してきた。

今回はコンビニで温めた弁当に懐炉を貼り付け、その上に(遠赤外線を反射させ冷却を防ぐ目的で)アルミ箔で包みのだものをインナーに入れたのだがその効果は????

弁当は少し温かかったが、期待したほどではなかった!!!
失敗は成功の母なり・・・・さらにトライするしかない!!!


何時間でもこの景色に浸っていたいのだが、明るいうちに駐車場所まで帰らなければならない。


フト、先週通った縦走路の途中にあった林道(車道)まで進み、林道を下る選択肢が頭をかすめた。

かなりその気になったが、林道(車道)は距離が長い上に、どこに出るかわからないと言う欠点がある。

結局来た道を引き返す事にして、12時30分に下山開始し、2箇所でテープを見失い元に戻り事なきを得、13時50分頃登山口に着いた。

この小岩倉川コースも一瞬たりともテープから目が離せない!!!
テープを張った方に感謝、感謝、感謝



多少時間があるので、林道三叉路で林道を右に進み大岩倉川に沿って林道を遡ることにした。ひょっとすると縦走路の途中にあった林道(車道)に出るかもしれないという期待があったからだ。

しかし1200歩進んだ所で道は車が進入できないほど荒れてきたので直ちに引き返し、駐車場所に15時頃無事到着。


頭の中は“縦走路の途中にあった林道(車道)は何処に出るのだろうか”でいっぱいであった。


縦走路の途中にあった林道(車道)への進入場所を地元の人に聞くしかない!!!

ちょうど県道脇で2人の老人男女が座り込んで話をしていたので、縦走路の途中にあった林道(車道)への進入場所を尋ねた所・・・・

何とその男の老人は、“わしゃー猟師をやっていて70年間猪や熊を追ってきたのでこのあたりの山は自分の庭のようなものだ”とおっしゃり、林道(車道)への進入場所を教えてくれた。

何と先々週ヤマちゃんおやじが歩いた林道が、延々と高羽ヶ岳の中腹や縦走路の最低鞍部を通り物見ヶ岳の中腹まで延びているとのことであった(先々週では、最低鞍部までは車での進入禁止されていた;為念)。

さらに老猟師は、“物見ヶ岳は背丈の高い笹が多く道に迷いやすい、以前物見ヶ岳登山で帰路道に迷い誤って林道(車道)に出てしまい途方にくれた人がいた”とも話していた。

婆さんは、“昔女の人が物見ヶ岳で道に迷って死んだ”とも話をしていた。

仮にヤマちゃんおやじが今回帰りに縦走路の最低鞍部に出てこの林道を下って下山したならばおそらく駐車場まで5時間程度掛かった(18時駐車場到着=真っ暗)であろう。

やはり都合の良い仮説(誘惑)に従わなくて良かった とつくずく思う。
やはり、安全第一だ。

DSCF4568.JPG 県道334号から見る物見ヶ岳、注意深く見ると天狗岩が見える!!!

と言うわけで、林道歩きは早めに切り上げて17時頃無事帰宅した。


一瞬も気が抜けない山歩きで、老人ボケの進行が多少なりとも遅れるのではないかと
一人悦に入りながらブログを書いた。
posted by ヤマおやじ at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする